批評学園

日常・非日常を批評するブログ。

 前回、左が社会主義って話が出たけどさ。元々、その語源的に左ってのは革新勢力のことだったわけだけど、それが社会主義志向の方々のことを指すになった。でも、今となっては社会主義に対して現実的な理想を想うような人はいなくなったというか、そこに説得力を持たせるのが難しくなっているからね。もちろん、ソ連崩壊以後っていうことになるんだけどさ。
 で、今の左はというと、戦争反対とか、憲法九条堅持とか、環境破壊反対とか、弱者救済とか、そういうことを掲げるようになってる。それ自体は、決して過激なものじゃないというか、むしろ耳に心地よい言葉だよね。もともと社会主義思想というのが、経済的に格差の無い、平等な社会を作ろうというところが根底にあるからね。そこから、経済システムを抜きにした普遍的な人間主義を抽出したってワケだ。
 ま、でも最近じゃ、めっきり左も元気なくなっちゃったねぇ。なんというか、カッコ悪い、という一言に尽きるんだけどさ。まず、スタイル自体がカッコ悪いっしょ。左ってのは、結構学生レベルとかでも運動をしたがるけどさ、プラカード持ってデモとか。そういう、集団での運動はカッコ悪いってのが、平均的な日本人の感覚じゃないのかな。戦争はしたくないと思っていても、戦争反対と叫びながらデモをしている人達を見ると、不快に思うっていうようなさ。
 街中で募金とかしてるのも、まぁ左寄りの運動と見ていいけど、あぁいうのもねぇ…。中には涙目になって訴えたりする奴もいたりしてさ、その前を素通りしようとした時の奴等の目といったら…じゃあ、お前は幾ら募金したんだ!と問い詰めたくなるよね。あ、それは俺だけ?頑張ってる人達に対して、不快感を露わにしたりしてゴメン…。
 まぁ、でも実際に運動をしていなくても、左特有の、地球とか、市民とか、自然とか、そういう言説に対して胡散臭いものを感じる風潮もあるでしょ。なんか理想主義的というか、ある種のカルト宗教的なさ。それに比べたら、右の方が、現実的に考えてるような雰囲気はするよね。
 それに関しては、北朝鮮の存在もやっぱり大きい。社会主義国家で、かつ、日本に対して露骨に武力をちらつかせてくる国に対して、どういう対応をしなければならないのかっていう現実的な問題ね。現実に武力を持った敵がやってくるかもしれないって時には、平和憲法だの、地球市民だのといった言葉が空虚に感じられるから。
 それだったら、むしろマルクスに則り、完全な共産主義社会を作ろうという、今日で言えば極左的な言説の方が、まだ説得力がある気がするけどね。
 いずれにしても、今さら右だ左だっていうモデルを振りかざすことに知的意義があるとは思えないね。21世紀は、左右といった観念を超えたモデルを提示しないといけないでしょう。たとえば、それは9・11以降の情勢を表す言葉になるだろうし、ある程度の成功をも収めつつあるんだろうけど、まだ20世紀的、左右、東西の亡霊が彷徨っているようにしか見えない。相当に強いトラウマになってることは間違いないからね。
 もはや左右で争ってる状況じゃないってことだけは確かだな。やはり、それを超克するのは、萌えしかない…って、またこのパターンか。。。
 福田首相になってから、特に動きもないですねぇ…って、そりゃそうか。でも、福田さんは、小泉・安倍路線を追従していくような様子でもないようだね。小泉さんの頃は、日本が右傾化していくなんていって騒がれたけど、安倍さんがそれを腰砕けにしてしまったような流れもあるからさ。福田さんが首相になったことで、ますますこの「右傾化ブーム」は沈静化していくのではないかな。
 もちろん、この「右傾化ブーム」は小林よりのり以降っていうことになるんだろうけどさ。愛国心だ、靖国参拝だ、憲法改正だなんていう言葉が踊った一連の流れね。もちろん賛否あるんだろうけど、戦後民主主義的とも言われる、左一辺倒の状況下で、そういった議論が全てタブーになっていたことを鑑みると、この右傾化と言われる流れには意味があったと思う。少なくとも、戦争や軍隊というものまで相対化して考えるという可能性を提示したわけだから。

 でも、特に70年代以降くらいの生まれの人達からすると、左右の議論には色々違和感もあるみたいね。イメージとしての左右の言説と、実際に左右の方々が言ってることの間にギャップがあるというかさ…。そりゃ、こういうことって学校では習わないけど、「天皇賛成が右でしたっけ?」なんて程度の理解の人達を見ていると、少し教えてあげなきゃって気にもなる。ある意味、この国を支配している宗教みたいなものだからさ。
 例えば、右といえば、アメリカ反対だと思ってるかもしれないけどさ、日本で右といえば、一般的には親米反中だからね。まぁ、ホンモノの右の方々は反米のようだけど、一般的な、「保守」くらいの右だと、基本的には親米反中なの。保守と右が、ほぼ同義だってのも説明が必要かな。まぁ、元々はフランス革命後の議会で、議長側から見て右が保守勢力、左が革新勢力だったからってことで、その語源にも適ってるけどさ。右ってのは、古き良きお国柄を大切にしたいっていうのがあるから、どうしても保守になるってワケ。
 で、話は逸れたけど、なぜ右が親米反中かっていうとさ。これには色々諸事情があるんだけど、戦後レジーム下での右のアイデンティティといえば、第一にはやっぱり「アンチ左」だったんだよね。右に比べて左というのは明快で、一つの指標は「社会主義」だったんだよね。というわけで、どうしても社会主義国家たる中国に対しては反対しなくてはいけない。となると、敵の敵は味方という理論で、本来の右の定義とは直接的に関係ないけど、資本主義を応援しないといけなくなる。で、結果的にアメリカのことは認めざるを得なくなるってわけ。日米安保に対してだってそうだよ。アメリカの傘の下にいることに忸怩たる思いを持っている右の方もいるだろうけど、安保反対ってやってしまうと、左になってしまうからね。だから、安保反対反対ということで、右は安保賛成。
 この辺の矛盾みたいなのは、やっぱり、俺は右だからアンチ左じゃなきゃいけない、とか、俺は左だからアンチ右じゃなきゃいけない、と、自己定義することによって、思考回路が固まってしまうという現象なんだけど、これは左右対立以外にも言えることだね。
 本当に腰をすえた右だったら良いけど、ただ単にアンチ左を叫ぶだけの右では、見ている人達が混乱をきたすのも当然でしょ。左右の言説も、状況によって随分とブレがあるしね。無意味に対立するよりも、時には右左が結託するのも必要かと思うけど…それはそれでキケンか。
 ツンデレはどうなんでしょう。もうすっかり定着したというか、定番として落ち着いたって感じかね。今まで概念としてのみあったものが、言語化されたことにより、モデルとして明晰に抽出されたって感じだけどさ。オタク諸氏も、自分達には、こういう性癖があったのか…なんて自覚したりしてね。でも、ややブームになりすぎたんじゃない?
 しかも、このブームの担い手は、オタクというより一般人でしょ。もちろん、実際にツンデレを享受しているのはオタク達が中心だろうけど、言葉自体を使っているのは一般人の方が多いんじゃないかなぁ。ようするに、揶揄する形で使ってるってことだけどね。オタクには、こういう変わった性癖があるらしい…みたいな形でさ。
 一応フォローしておいた方が良いのかな。ツンデレってのは、『出会った当初や、親しくなるまでの間はツンツンとして冷たい感じだが、親しくなったり、交際したりすると、途端にデレデレと甘えてくる』という性格のことだ。もちろん、基本的には女性のことを指して使うわけで、元々は『恋愛シミュレーション』とか『美少女ゲーム』と呼ばれるゲームから出てきた言葉なわけだけどさ。ツンデレ喫茶なんていうメイド喫茶の変形バージョンが出来て、それが随分と話題になったことにより、一般人にも知られるところになった…みたいな感じかな。
 そういう性格の女性のことを良いと思う感覚って、ある程度は共感できるものがあると思う。その女性は、みんなに対しては基本的に冷たく、ツンツンしているわけだけど、自分に対してはデレデレしてくる…という、ある種の優越感、そして、今までツンツンしていた女性が、デレデレしてきた時の達成感、この辺だろうね。
 お気づきのように、この後者の方は、恋愛シミュレーションゲームと親和性が高いんだ。攻略のプロセス自体を楽しむために、その女性との親しさの振れ幅を強調させたというかさ。ようするに、そういう系のゲームってのは、ターゲットの女性と親しくなっていく様が面白いわけだから、相手の態度が良い方向に変わっていく過程を強調したいわけだ。そういう意味では、ツンデレってキャラ設定は、恋愛シミュレーション向けだし、そこからブームになっていったってのも分かる。
 しかしだ。この、恋愛シミュレーション的感覚であるツンデレを、現実世界に無理矢理持ってこようとした時の惨めさは目も当てられないものがあるね。冷たくしておいて、後から優しくしたら、オタク達は喜ぶんでしょ?…みたいな、この安易さ。さすがの俺もそろそろ決起しなければと思ったよ。
 良い例が、さっきもチラっと言ったけど、ツンデレ喫茶ってのね。入店すると、ツンツンして感じの悪い店員がやって来て、しばらくして帰ろうとすると、途端にデレデレと甘えてくるっていうサービスなわけだけどさ。それってツンデレ?…みたいな。俺が経営者だったら、その客が来店何回目か分かるようにして、初回入店のお客さんには、店員の女の子は終始ツンツンしてさ、5回くらい来ると、だんだんデレデレしてきて、10回目以降くらいになると、もうスゴイ!…みたいにするよ。で、女の子はそれぞれ攻略のしやすさが違ったり、キャラクターなんかも少しずつ変えてね!
 なんか水商売っぽくなってきたな…クダラナイね。
 福田康夫が総理大臣になったってことで、中国の方々がネットで盛り上がってるなんて話があるみたい。いや、俺もネットのニュースで見ただけなんだけどさ。福田は親中派みたいに言われてるから、その辺りかと思いきや、どうやらコレが変な話で、「のび太首相が誕生した」っていって喜んでるらしいんだわ。
 日本では特に指摘されてないけど、まぁ確かにメガネかけてるし、ノンビリした感じで、のび太っぽくなくもない…。でも、こんな曖昧な特徴で盛り上がってるのかと不審に思ったら、どうやら、中国版ドラえもんでは、のび太の名前は「野比康夫」らしいんだ。ようやく少し納得してきた感じ。しかし、ナゼ康夫かってのは、依然として腑に落ちないけど…そりゃ向こうの人のセンスだから仕方ないか。
 ま、とりあえず、のび太と同じ名前の康夫って総理大臣が誕生して(なんか矛盾な文章だね)、その人のルックスもやっぱり似てるってんで、盛り上がってるみたい。
 しょうもないジョークだっていやそれまでなんだけどさ。でも、やっぱり漫画の力はスゴイって思わせるね。反日だなんだって騒いでるけど、やっぱりみんなドラえもんは好きなんだなって感じで。
 でも、のび太ってのは、いくらなんでも設定がおかしいよね。どう考えても今71歳のわけはないっての。いや、揚げ足取るわけじゃないけど…。ドラえもんは2112年生まれってのは有名だけど、のび太は何年生まれだっけな。誕生日は、確か8月7日のはずだけど、何年生まれかはボカシてると思う。いや、正式な誕生日はあるはずだけどね。一巻か二巻で、赤ちゃんの頃のアルバムを見るシーンに書いてあったかも。でも、それは臨機応変に変わってくって感じで、基本的には、永遠の小学四年生(アニメでは五年生だけど)のはずだ。
 あと、年齢もそうだけどさ、中国の人からするとピンとこないかもしれないけど、福田康夫の素性とか家系ってのはメチャクチャ有名なわけだからさ。なんてったって、父さん総理大臣だからね。だから、俺達日本人の感覚からすると、のび太が大人になって福田康夫になった…なんて感慨を持つなんて有り得ないよね。

 あ、ふと思い出したけど、確かドラえもんの13巻だったかな、のび太が総理大臣に電話しようとしたシーンがあったけど、その時の総理が三木武夫じゃなかったっけな。ひょっとしたら、総理の名前は版を重ねるごとに変わってるかもしれないけどさ。でも、たぶん俺の買ったのは初版だと思うけど、それは三木さんだった。三木武夫の次の総理は福田赳夫だからね。もしも、もう少し後にそのエピソードを執筆していたら、福田赳夫が総理大臣になっていて、そこにのび太が電話していたわけだ。そしたら、総理秘書官の福田康夫が出て、電話越しとはいえ、夢のツーショットが成立していたかもしれない!…いや、首相官邸に電話して秘書官が出るものなのか知らないし、そもそも全然夢のツーショットでもないし、俺の完全な妄想にすぎないわけだけどさ。
 ま、今回は、なんか久々に良い話だったって気もするけどね。漫画の魅力は国境を越える…みたいな感じで。でも、福田康夫がのび太だとしたら、ドラえもんは…森喜朗かな!?どうやら最近は影の総理みたいな雰囲気で、裏で元気に指示を出してるって話だしね。ずいぶんと凶悪なドラえもんだけど!
 『サラリーマンNEO』って番組知ってる?いや、昨日で終わったんだけどさ。NHKがやっていた、「お笑い番組」なんだ。ていうか、俺も知り合いから勧められたんだけど、結局二回しか観なかったけどさ。劇団員上がりみたいな役者主体の、スタイリッシュなコント番組って感じなんだけど、正直言って俺は…う〜ん、って感じだったかな。
 またちょっとひねくれたコト言っちゃうけど、正直、鼻につくって感じだったね。スタイリッシュとか、抽象的なこと言ったけど、ようするに、「ツッコまない」系ってことで概括しちゃっていいか。もちろん、全部が全部ツッコまないわけでもないけど、基本的に、真面目な顔して変なことして、その様を見て笑うとか、それによって困惑している周りに人々の様をみて笑うとか、そういう感じがメインなわけ。好きな言葉じゃないけど、「シュール」とか「東京系」という単語がしっくりくるのかな。なんとなくイメージ分かるでしょ?そういうスタイリッシュさって。
 で、何が嫌かって、そういう気取った雰囲気(?)プラス、これを見てる連中の選民意識が垣間見えるとこね。多分、ラーメンズ最高!とか言ってる連中とかとカブりそうな気がするけど、「こういうお笑い番組を見ている俺はセンスあるぜ!これが分からない奴らはダメだ!」って思ってそうでね。「これが新しいスタイルの笑いだ!」とかさ、バカじゃないかって感じだよ。っていうか、俺、勝手な妄想で怒ってるような気がしてきた…我ながらアホだね。『サラリーマンNEO』好きな皆さんゴメンなさい。
 でも、ある種のお笑い芸人や番組を好きな人達が、自分達を知的にスタイリッシュだと思うってのは、よくある傾向だし、そういうスノッブさって、傍から見ていて気分のイイものじゃないよね。お笑いというものが、ある種の知的教養みたいになってるみたいな、胡散臭い風潮…。
 で、そのような意識って、多分『オレたちひょうきん族』辺りから見られるようになったんじゃないのかな。ようするに、国民的じゃない笑いというか、最初からターゲットを絞ったお笑いが始まったっていう意味でね。『8時だョ!全員集合』という、まさに国民的なお笑い番組に対抗する形で、同じ方向性でいかず、若者向けにスライドした形でやっていった『ひょうきん族』は、結果的に大きな成功を収めたわけだ。『全員集合』より、『ひょうきん族』を観ている方が「カッコイイ」と思わせることに成功した。
 で、その傾向を更に先鋭化させたのが、とんねるずだろうね。『みなさんのおかげです』とかは、確信犯的に内輪ネタや業界用語などを使い、閉じたコミュニティを作っていくことに成功して、それによって視聴者の選民意識を促進させたような面があると思う。それから、お笑い番組といえば、若者のもの…みたいな風潮ができてきたんじゃないかな。
 まぁ『サラリーマンNEO』は、そんなに大きな、お笑い正史に残るような番組でもないし、お笑い界に一石を投じたというわけでもないけど、意義を見出すとしたら、やっぱりNHKがやってるっていう所だろうね。NHKは、『爆笑オンエアバトル』を始めて、この若手お笑いブームに火をつけたっていう一件もあるし、お笑いを文化として見直していこうっていうような野心が強いのかもしれない。
 それに、民放だと、タレント先行型の番組しかできないから、どうしても看板となる芸人を軸とした作りになってしまう。『オンバト』も『NEO』も、そういうスタイルではないって意味では斬新なのかもしれない。ネット放送やCSなんかしか、無名の人々にはチャンスがないってんじゃ、民主主義的じゃないもんね。芸能界という束縛に捕らわれない番組作りができる放送局としてのNHKには、やっぱり可能性は感じるかも。
 安倍さんを見ていて思ったけど、「辞めどき」ってやつはホントに重要なテーマだよね。いつ辞めるべきか、とか、どんな形で辞めるべきかってのは、まぁ基本的にはネガティブな話だし、言霊信仰のある俺達日本人からすると、そういうことを考えたり話したりすること自体が、辞めなければいけない状況を作り出すような気がしてイヤだけどさ、やっぱり重要はことだよ。縁起悪いとか言わず、真剣に考えてみるのも良いかもしれない。
 ただ、俺達は、小さい頃から「辞めどき」の問題にずっと直面してきたと言ってもいい。皆さん薄々感付いてきているように、メディアの世界の話なんだけどさ…。今日は特に、『週間少年ジャンプ』における、連載終了問題について考えてみたい。いや、そんなに漫画に造詣深いわけでもないんだけどさ…。それに、同じ『週間少年ジャンプ』でも、世代によって読んでる漫画に違いがあるわけだから、俺的な、偏ったものになると思うけどどね。ていうか、今回はネタバレが多量にあるので注意!
 まず、辞めどきを見失った作品として挙げられるのは、やっぱり『ドラゴンボール』でしょう。まさに国民的漫画だったわけだけど、まぁ本当の終盤辺りは蛇足な感じだったよね。魔人ブゥとかさ…サタンが頑張った辺りはちょっと光も見えたけど、既に勢い自体が無かったからなぁ。セルの辺りもね…18号がいたお陰で盛り上がったけど…って、それは俺の趣味か。いずれにしろ、やや強引かと思われた「サイヤ人篇」がかなりの成功を収めたわけで、一応の「サイヤ人篇」の完結と見なされる「フリーザ篇」をもって大円団とするのが一番キレイだったのではないかな。
 逆に物足りなく終わったのは『聖闘士星矢』か。「十二宮篇」⇒「ポセイドン篇」⇒「ハーデス篇」と、かなりキレイに来たけど、「ゼウス篇」が匂わされていた分だけ、やや尻つぼみに終わった感がある。その後、映画で「天界篇」が作られたらしいけど、その辺の評判もイマイチな感じだしね。まぁ、でも単行本は「ハーデス篇」終了でキレイに終わってるし、まだマシな方か。
 『銀牙』なんかはどうなんだろう。ちょっとマイナーになってきたなぁ…。なんで銀牙なのかって意見もあるだろうけど、浮かんだんだから仕方ない。いや、個人的には好きだったんだけどね。これも「赤カブト篇」で終わって良かったと思うよ。「皇帝ガイア篇」は、色々と昂ぶらせる要素も詰め込まれていて、可能性は感じるんだけど…。ベツモノ感が漂っていてキツかった。
 逆に、キレイに終わった作品といえばは、やっぱ『キン肉マン』かな。最後にキン肉星の大王になって終わるというのは、完成度高く感じるね。強さのインフレという感じもなくて、超人強度も一億パワーという、ちょうどキリの良い数字が最強の目安になってたしね。うん、やっぱりキレイだ。
 あとは、スラムダンクの終わりも良かったんじゃないかな。最後、インターハイで優勝できなかったわけだし、いかにもクセの強いライバル達も出てきたわりには、対決せずに終わったわけだから、やや急速な幕切れっていう感じもしないでもないけどさ。何しろ山王戦の完成度が高かったし、また、山王に勝ったのに、次の試合でアッサリ負けた…みたいなのも、湘北らしくてイイと思うんだよね。ただ、花道がリハビリしている所で終わるってのは、やや引くなぁ…。そんなにヒドイ怪我だったの?って感じで痛々しい。
 なんか、語ろうと思ってた漫画が沢山あったけど、紙面の都合でとりあえずここまで!でも、ちょうど良い所で連載を終わらせられずにズルズルと続いたり、あるいは、途中で終わらせられたり、ジャンプの商業主義的なシステムってのは、作品作りって面に限っていえば、必ずしも最適なものではないかもしれないね。もちろん良い面もあるけどさ。
 でも、ジャンプ漫画から、『辞めどき』について学ぶことは多い気がしますな。
 自民党の新総裁が決まりましたね!って、福田康夫とは…。安倍退陣以前は、そんな空気でもなかったのにね。どっちかっていうと、麻生有利みたいな下馬評だったでしょ。まぁ、当時は安倍退陣っていうシナリオが現実味をもって受け入れられてなかったような気がするけど。
 福田康夫はねぇ…ただの無難なオジサンかと思っていたら、総理の椅子が目の前にチラついた瞬間に変わったような気がするなぁ。随分と元気そうじゃない。まぁ、でもそんなもんだよね。珍しい話じゃないし、何しろ権力の魅力ってのは人を狂わせるからね。もちろんプレッシャーもあるんだろうけど、日本の憲政の歴史に名が残ると思ったら、やっぱり何か湧き上がるものもあるでしょう。元々、政治家になろうなんて料簡の人間は、野心があるに決まってるんだからさ。まぁ、俺達からしたら、総理になった後が重要なんだけど。
 でも、こういう無難ぽい人が総理になった場合、意外と張り切るかもしれないし、周りが警戒してない分だけ、ノラリクラリしながら重要な法案を通すとか、活躍するかもしれないよ。ちょうど小渕の時を思い出すよね。
 ま、小泉⇒安倍と続いた路線を、色々変えていくみたいなことも言ってるし、そりゃ旧体制的な自民党に戻るのかって気もするけど、少なくとも国民的には、それこそが「改革」だって面もあるかもしれない。国民が求めてる「改革」ってのは、結局、停滞した現実を何か変えてくれそうな雰囲気ってことだから。
 でも、この福田って人のことも詳しくは知らないんだけどね。でも、父さんは有名人だ。福田赳夫はさ。絵に描いたような秀才で、東大から、確かトップで公務員試験に受かって大蔵省入ったんだった気がする。勿論、それがスゴイっていうわけでもないけどさ…。でも、正直言って、世間のイメージはどうなんだろうね?例のダッカ事件の影響で、微妙な感じなんじゃないかなぁ…。
 ダッカ事件ってのはアレだ。日本赤軍がハイジャック事件を起こして、仲間を刑務所から解放しないと、人質を殺すとか言って脅したんだけど…時の首相福田赳夫は、それに屈してホントに囚人を解放しちゃうんだよね。よく、テロとの関わり方みたいな話の時に引き合いに出される事件だから、結構有名だよね。で、この対応は、国際的にも非難を浴びたんだ。テロリストの要求を呑んじゃいけないってのは、やっぱり国際常識なんだよね。海外ニュースなんか見てると分かるけど、テロリストなんかは、容赦なく殺すのが普通でしょ。多少、一般人が巻き込まれても仕方ないくらいの勢いだよね。まぁそれがイイのか分からないけど、少なくとも、福田赳夫の判断は内外からの非難にさらされたわけ。その事件があって、あまり良いイメージじゃないのかもしれない。息子がどう挽回するか…。
 それにしても、小泉だ安倍だ福田だ麻生だって、みんな二世三世議員ばかりじゃない。この国は、親が政治家じゃないと総理大臣になれないのかって心配になってくるよ。そういうのって、民主主義の腐敗の原因になる気がするんだけどなぁ…。
 海の向こうでも、ブッシュ⇒クリントン⇒ブッシュ⇒クリントンと、二つの家族が大統領を輩出し続けるという事態が起こりつつある様子だからね。そういうのを防ぐようなシステムを作るべきな気もするけどさ。まぁ、政治家や役人なんかに不利な法律やシステム作りをするってのは、なかなか難しいんだけど。
 オタクと犯罪について、もう少し語ってみるかな。ていうか、まず一番の問題は、オタクの定義になってくるわけだけど…。そもそもの始まりは、同人誌即売会などで、お互いのことを『おたく』と呼び合ってる人達がいるっていうのを揶揄する形で、83年に中森明夫が命名したわけなんだけどさ。だから定義的には、「お互いを『おたく』と呼び合ってる人達」ってことになるわけだ。でも、もう今時、『おたく』なんて呼びあってるオタクを見たことある?完全に絶滅したかもしれないね。俺が高校時代くらいには、ギリギリ生存していたんだけど…。
 というわけで、ここでは、オタクについて、「特定のサブカル(作品)が大好きで、特にそのキャラクターに偏愛する傾向を持ち、また、その周辺の知識を蓄えることや、関連グッズなどを集めることに生き甲斐を感じている人」くらいの定義にしておきますか。ちょっと詰め込んだ感もあるけど、こういう人を見かけたら、まぁオタクと言って間違いないでしょう。そこから、社交性の低さや、恋愛弱者性、ファッションに気を使わないなども派生してくる可能性はあるけど、とりあえずはサブカル(作品)へののめり込み具合みたいなところで考えてみた。ちなみに、サブカルの定義は、俺が考えた定義「親の前で見ていると気まずいもの」とさせてもらう。
 ここで、前回言った、サブカルと、社会との隔絶と、犯罪志向の問題を改めて切ってみよう。サブカルとオタクの関係は、すでに上記した通りで、サブカルが好きな人はオタクであり、オタクはサブカルが好きなので、オタクとサブカル好きは必要充分条件で結ばれている。

 次に、サブカル(オタク)と、社会との隔絶の問題。では、サブカル好きだと社会と隔絶していくのかというと…これはやや相関関係があると思われるね。サブカルは、その定義上、公的な場で話しにくい場合が多く、どうしても、特定の小さなコミュニティの中で話すしかなくなるか、あるいは、一人で完結していくというパターンが多くなる。また、サブカルを重視するほど、現実社会の方がむしろ二次的となり、帰属意識は低まると思われる。
 そして、社会と隔絶された人は、サブカルが好きなのかというと…こちらの方が相関関係があるかも。精神的な傾向や、社会的状況、その人の立場などにより、社会と折り合いをつけていくのが困難な人が、サブカルに癒しや居場所を見つけていくというのは、一般的に見られる傾向でしょう。
 
 では、社会との隔絶と犯罪志向についてはどうか。社会と隔絶された人は犯罪志向を持つ…これは関係あるんじゃないかな。少なくとも、元々持っている犯罪志向性が後押しされるような所はあると思う。
 犯罪志向のある人間が、社会と隔絶していくかというと、これもあるよね。

 最後にサブカルと犯罪志向だけど…。サブカルが好きだからといって犯罪志向性を持つとは思えないね。元々犯罪志向性を持ってる人が、ある種の過激なサブカルに影響を受けることはありうるかもしれないけど…。
 犯罪志向性を持った人間がサブカルを好きになることは…これは結構あるんじゃないかな。特に、サブカルの中でも過激なものなんかを求めて、それで自らの犯罪志向性を擬似的に満足させることもあるだろうし。

 というわけで、まとめると…サブカル好き(オタク)だからといって、直接犯罪に走ることはほぼ無いだろうと。でも、サブカルにハマり過ぎて、社会と隔絶された状況に陥ったり、社会との隔絶感を強く感じるほどになってしまうと、そこから犯罪に走ることがありうると。あるいは、元々人とコミュニケーションを取ることが苦手で、実社会に癒しの場を見つけられない人が、サブカルにのめりこむことでオタク化し、その中の過激な作品なんかから刺激を受けて、犯罪に走るってパターンもある…と。
 結論としては常識的って感じかな。でも、常識的な結論が導かれるってのも大切でしょ。ていうか、こりゃ一体、誰を弁護してるのやら…。


├ オタクの定義 ┤                          ├ 一般人からのイメージ ┤
├―――――――――――――― 広義のオタク ―――――――――――――――┤
 サブカル好き            (やや関係アリ)→           社会との隔絶
                      ←(かなり関係アリ)
(あまり関係ナシ)↓↑(やや関係アリ)      (かなり関係アリ)↓↑(かなり関係アリ)
                        犯罪志向性
 90年代なんかは、何か犯罪が起きたら、オタクの仕業だと思われていたような風潮があったよね。言うまでもなく、宮崎勤以降ってことになるんだろうけどさ。彼自身のオタク度がどれくらいのものであったかはともかく、あの事件によりオタクのパブリックイメージが固まったみたいなとこはあった。
 それまで、一応オタクというと、「特定の物事(特にサブカル系)に異常に詳しい」ってのと、「小汚くて、社交性がなくてアブナイ」っていう二つのイメージの上に立っていたわけだけど、宮崎勤事件以降、「彼はオタクだよ」と言った場合、後者のイメージを指すようになってしまった。
 まぁ、一番最初にオタクという言葉が生まれた当時は、後者のニュアンスが強かったんだけど、宮崎駿の映画作品なんかの影響などで、前者の方、つまり、ややプラスのニュアンスの方に移行してきた矢先に、宮崎勤事件が起きたって感じだったからね。
 事件後、またオタクのイメージを持ち直そうという運動が起こったけど、その象徴的なのが、「おたく」⇒「オタク」という表記の改革だったと思う。元々、オタクって言葉はひらがな表記だったのが、いつの間にかカタカナ表記がメインになってたでしょ。これも恣意的な運動だったんだね。単純って言えば単純だけど、カタカナ表記にすることにより、サイバーパンクなイメージというか、それはちょっと言いすぎかもしれないけど、ちょっとメカニックな感じみたいなさ。ひらがな特有の湿り気のようなものを払拭しようとした感はあるね。岡田斗司夫辺りが牽引した運動なのかな?岡田がやってた、「オタクは海外で評価されてる」…なんていう運動もその一環でしょ。
 でも、やっぱり世論総体としてはオタクに対して批判的で、何か事件があると、ゲームや漫画、ホラー映画なんかに起因するものだという評論が流行ったわけだ。マスコミなんかは、明らかにそういう言説を求めていたしね。香山リカとかが、ゲームを弁護するような戦いをしていたけど、正直、焼け石に水だった気がするなぁ。そりゃ、年長者達からしたらさ、ワケの分からないものがあって、それに熱中してる変な若者が多いと聞いたら、不安になるだろうし、そこに犯罪の温床を見出したくもなるだろうね。
 でも、それからオタク文化は広がりに広がって、もう社会全体を覆うくらいになったわけだ。で、みんながゲームや漫画なんかに浸るようになった、一億総オタク化が完遂しつつある今、オタクが必ずしも犯罪を犯すわけじゃないことが、ようやく分かった。やはり、犯罪を起こす奴は起こすし、起こさない奴は起こさないっていう、ある意味で当たり前のことが分かったというかさ。
 犯罪を起こすかの大きな要因は、社会との隔絶感でしょう。ちゃんと社会に属してるという意識が強い人は、なかなか犯罪には走らないだろうし、社会的地位や立場、守るべき家族などが無いような人は、自分は社会に属してないんだと思って、相対的に犯罪に走りやすくはなるでしょう。しかし、社会と隔絶した、社交性の無い人達をオタクと呼ぶと定義されているわけではない以上、そこに直接的に、オタクは犯罪に走りやすい、と明言するわけにもいかない。ただ、オタク的サブカルに接した人が、犯罪志向を後押しされる面も無いわけじゃないと思う。サブカルと、社会との隔絶と、犯罪志向、この三つの関係、を、「オタク」をキーワードに、もう少し真剣に考えるべき必要はあるかもしれない。これを三位一体と見なすか、見なさないか、あるいは、一方的な矢印で結ばれてると見るのか、双方向的な矢印で結ばれていると見るのか。こりゃ一冊本が書けそうなテーマだな。 
 しかし、オウム事件ってのも、まだ終わってない感じだね。教団名をアーレフに変えてからも、内部分裂だ、教祖の娘がどうだって、話題が絶えない。ただ、かつて、というか、いわゆる地下鉄サリン事件が起きた95年に大々的なブームになりすぎてしまって、一般的な印象としては、過去の話ってことになってしまうんだろうけど…。
 まぁ、でもホント、不謹慎な言い方だけど、オウムは流行りましたね。マスコミも、嬉しくて仕方ないって感じで取り上げてたもん。だいたい、麻原逮捕くらいまでの約二ヶ月間は、毎日のようにオウムのニュースや、特別番組が流れていた。そして俺も、それをほとんど観てたもんね。ちょうど、色々勉強しなきゃいけない時期だったんだけど…。
 そりゃ、マスコミに踊らされていただけじゃないかって意見もあるかもしれないけど、やはりアレは重大な事件だったでしょう。今考えれば、極めて90年代的な事件だったとも言えるけど、色々な象徴性、特殊性、そして社会的な影響などを考えても、「昔そんな事件があったね」といった感じで終わらせることのできない、多くの問題を孕んでいる事件だと思うよ。
 俺自身に関して言えば、衆院選出馬の時も、『朝生』で幸福の科学と討論した時も、一応チェックはしていたんだけど…まぁそこまでの思い入れがあったわけでもなかったし、もちろん、『ヴァジラヤーナ・サッチャ』を定期購読していたとか、そんなエピソードも無いわけでさ。
 やっぱサリン事件が起きてからだよね。宗教団体が地下鉄で化学兵器を撒くっていう、このライトノベル的なセンスに、非日常性を感じて、なにか眠っていたものが蠢動しだすような感覚を感じたんだ。僕等がずっと待っていた一発が来たって感じ。教団の内情とかを見ても、内向的なコミュニティって感じで、オタクサークル的なイメージがあったね。しかも、みんなでホーリーネームとか○○大臣とかで呼び合っていたってんでしょ?さらに、脳内でのものとはいえ、他の宗教団体や日本国、それに、アメリカやフリーメーソン、ユダヤ資本なんかとも戦ってたわけだからね。サブカルに育てられた俺達の夢が、全て叶う空間にも見えた。
 いや、たぶん当人たちも楽しかったんだと思うよ。ほら、バブルも崩壊して、社会全体に閉塞感も漂っていたわけじゃん。ある程度、その危険性は自覚していても、何もなく過ぎてゆく退屈な日常を、楽しく、生きがいのあるものにする為のツールとしてのオウム真理教というものには、抗えがたい魅力があったのもまた事実だったのではないか。
 サリン事件が起こった後も、オウムに入信する人が後を絶たなくて、社会問題になったりしたけどさ。それもある意味で当然だと思うよ。世の中には、犯罪的志向性ではなく、破壊志向というか、ハルマゲドンが実際に起こってほしいと思ってる人が沢山いるわけだから。そして、それはある程度は誰にでもある気持ちじゃないのかな。普段は社会的な仮面を被ってる善男善女だって、何らかの突発的な事故により、「普通の」社会生活を営めないような状況に置かれたりしたら、何をしだすか分からない。
 それに、オウムがサリンを撒かずに、サティアンに篭もって、みんなでマントラでも唱えているだけだったらさ、俺達はどうそれを否定すべきなんだろう。それは、広義のリベラリズムの問題になってくるのかな。
 俺は常に世直しってことを考えてるわけですが、やはり究極的には、心の救済というところに行き着くのでしょうな!それも、別にスピリチュアル的なことではなく、社会構造の変革といった方向からね。こりゃまた話が大きくなって参りましたが!
 やや教科書的な話をすると、今の世の中はポストモダンだという話があるわけ。日本語だと、近代の後に現代がある…みたいな区分をするけど、モダンって英語は近代と現代両方含んでるんだ。まぁ、とりあえずモダンってのを近代と訳すとすると、ポストモダンってのは、近代の後の時代ってことだ。新たな呼び名を作るのではなく、ポストを付けるってことは、近代の延長ということを凄く意識しているからなんだけどね。
 で、このポストモダンの社会の特徴として、「大きな物語」の失墜というのが挙げられるって話なの。こりゃリオタールって人の反復なんだけどさ。ようするに、近代というのは、皆が共有できる社会的通念や価値観のようなものがあったと。それが「大きな物語」だ。
 例えば、皆が共有していた「正しい」価値観に、「近代化」というものがあった。近代なのに「近代化」とは、語義矛盾のように感じるかもしれないけど、近代とは、科学的、産業的、工業的発展をその根本に置く社会様式に他ならないわけで、発展が継続されている状態のことこそが「近代化」なわけだから。言い換えれば、まさに「近代化」が成されている状態こそが近代なわけ。
 つまり、近代では「近代化」が成され続けることが前提であって、そこでは、「近代化」ということは検討の余地すらなく「正しい」ことなわけだ。それは、人類にとっての最重要観念の一つである「便利さ」「快適さ」を生み出すからってこを考えても納得がいくけど、人は「便利さ」「快適さ」に抗えないわけさ。どんなに崇高な理想を掲げても、エアコンも無い、ケータイも無いなんて生活に戻ることはできないからね。

 で、ポストモダンの社会というのは、充分に近代化され、社会の発展というのもそれなりに臨界点というか、飽和点に達して、成長や発展という絶対的な目標を失い、人々は、各自の内面的な満足に向かう社会…とかなわけ。そこでは、価値観は多様化、相対化され、「これが正しい」という言説に説得力を持たせるのが難しくなる。
 人によっては、これこそ人類が何千年来求めてきた有り様だって言うけど、どうだろうね。人々の無連帯状態、それに伴う反社会的行動の頻出、また、違う価値観を持つ共同体(宗教的、民族的など)との争いもますます大きな問題になっているでしょ。
 ポストモダンの世とは、不安定な、ゆらぎの状態だと言えると思う。そして結局のところ、人々は「大きな物語」の復権を願っているのではないか。特に、左が説得力を持たなくなった今、アメリカでも中東でも日本でも中国でも、「右傾化」が進んでいるでしょう。ここで言う右傾化というのは、イデオロギー的な側面というよりも、自国、自民族の尊厳の回復みたいな側面を重視してるんだけどね。
 この不安定な状態から脱却するには、新たな「大きな物語」を生むという方向性がある。そこで私が提唱するのは、「萌え」を世界共通の価値観にすることである。だんだん雲行きが怪しくなってきましたネ。世界人類がアニメ絵の描かれたTシャツを着て、肩を組んでアニソンを歌う…そこは、国家も宗教も無い、まるでジョン・レノンの『イマジン』の世界ではないか!こりゃ、ただの放課後の漫研ダネ。
 その日、俺達の前に降臨した『ときめきメモリアル』。
 それから、『ときメモ』と俺との蜜月の日々が始まったわけだけど、ゲームとしてのその魅力や可能性に痺れながらも、その孕む危険性も、俺はまた一早く察知していた。それは、ゲームの中のキャラクターとの恋愛を楽しむという、ある種の語義矛盾ともいえる状況そのものに関わる問題なんだけど…はっきり言うと、架空の女子に恋愛するということに、恐ろしさを感じていたんだよね。
 あまり言うとアホだと思われるかもしれないけど、背徳感というのかな、ある意味で自然の摂理への裏切り行為のような気がしてさ。しかも、俺個人の問題じゃなくて、こんなゲームが蔓延したら、人類はダメになっちゃうんじゃないかという焦燥感にも駆られたんだ。
 当時、『ときメモ』を指して、
 「これが『ときメモ』か〜。でも、これってパソコンとかで出てるソフトに比べたらアブナくないよね!まだ健全だよね〜!」
 なんて言ってる輩が多くいたのが象徴的だけど、エロゲーともよく比較されてたんだよね。そして、エロゲーに比べたらまだマシだ、と。でも、そうかな?
 エロマンガ読んで興奮してる奴と、普通の少年マンガを読んでるけど、そこに出てくる女子に本気で恋してるって奴と、どっちがアブナイかねぇ?俺は後者だと思うけど、その辺の倫理観というのは、まだ真剣に検討されてないんじゃないかな。オタク系文化人や、ジャーナリストの一部なんかには、それなりに分かってる人もいるようだけど…。なんというか、世間一般を見たら、そういうことを考えることすら恥ずかしいみたいな風潮があるでしょ。いや、これはこれから大きな問題になってくるかもよ。
 理想的にカスタマイズされた異性がいたら、現実の異性に対して興味を持つ必要性が無くなってしまうだろう…というさ。これは、『ときメモ』の時点ではそれほどリアリティを感じられなかったかもしれないけど、技術の進歩により、ヴァーチャルな形とはいえ、実際に3Dで見て、触れることもできるようになったら、現実の女子よりもそっちを選ぶ人が普通に出てくると思うよ。もちろん、同じことが、女子達の側にもいえることだけどさ。
 それまでにも、非現実の世界の異性への特別な感情というのは、オタク特有の恋愛志向性として認知されていたわけだけど、あくまでオタクの側の問題というか、オタクが勝手にそう思ってると見なされていたんだよね。ところが、『ときメモ』は、作品の方から能動的に、恋愛するように仕向けていったわけだ。それはやはり革命的なことだったのではないかな。現実とヴァーチャルの境を曖昧にしてしまったとも言える。
 思うに、『ときメモ』は、神に背く禁断の扉を開けてしまったのではないだろうか。出来損ないの群体としての人類を、他者に依存しなくてもデジタルデータだけをもって満足を得られる、完全な単体へと人工進化を促す。そしてそれは、終局への隘路なのではないか!
 そんなことを考えながら『ときメモ』をプレイしていた、当時の俺の葛藤を察してほしいものだね!ていうか、我ながらホントにアホですな。。。
 その後、『ときメモ』がプレイステーションへと移植され、熱狂的な支持をもって迎えられたのは、皆さんご存知の通り。そこから派生したともいうべき恋愛シミュレーションの数々は、今や定番となったわけだ。当時の俺の危惧は杞憂だったのか、それとも、まさに現実的な問題となっているのか…。
 かつて、ゲーム少年達の天空を、PCエンジンというハードが支配していた時期があった!いや、なかったか…。とにかく、PCエンジンが人生と同義だった少数のゲーマー達がいたんだけど、ある時、彼等のアイデンティティすら揺るがすような大事件が起きたのだ。
 『コナミ参入!』
 今、この言葉の重みを実感できる人は少ないだろうね。少々説明すると、コナミってのは当時の最重要ソフトメーカーの一つで、数多くの名作ソフトを作っていたんだけど、その拠点はファミコン、及び、スーパーファミコンであって、PCエンジンユーザーにとっては、むしろ打倒すべき相手くらいの位置にあったんだ。そのコナミがPCエンジンに参入する(PCエンジン向けのソフトを発売する)ってんだから、騒ぎにならないはずがない。新入りルーキーに対して、手放しの歓迎をもって迎える者も勿論いたけど、やや警戒しながら、冷めた目で傍観している者もまた多かった。
 しかし、その辺はさすがコナミ。早速『グラディウス』『沙羅曼蛇』といった名作ソフトをハイクオリティで移植してきて、硬派を自称するPCエンジン野郎達を唸らせたのだ。良い仕事してるヤツは認める、認めたヤツは仲間…そんな鉄の掟に則って、コナミと俺達の間には固い友情が芽生えたわけだけど、まだコナミが全力を出し切ってないことも明らかだった…。
 ここで少し説明だけど、PCエンジンというハードは、カードとCDロムと、二種類のソフト形態があってね。この二つは天と地ほどに記憶容量が違って、CDロムのソフトの方が何倍もクオリティの高いものができるんだけど、実はコナミは、カードのソフトしか作っていなかったんだ。
 カードでこれだけのゲームが作れるということは、CDロムで作ったら、どれだけのゲームが出来るのか…。俺達は、コナミの潜在能力に畏敬の念を抱くと共に、まさにPCエンジン新時代を切り開くかもしれない、コナミのCDロム第一弾ソフトに対して、強烈な渇望の意識をもって、その動向を見据えていたのだ。お家芸ともいえる、高難度アクションorシューティングで攻めてくることは必至。俺達も、来たるべき決戦の日に備え、動体視力を鍛えていた。
 そんな昂ぶりが最高潮に高まった時、PCエンジン雑誌に見出しが躍った。
 『コナミ CDロムソフト第一弾は 恋愛シミュレーション「ときめきメモリアル」』
 と…ときめき…。誌面には、アニメタッチの女子の絵がズラリ。
 俺は雑誌を投げ捨て、夕焼けに向かって咆哮した。裏切られた!そんな思いでいっぱいだった。もう大人は信用できない!そのまま自転車に飛び乗り、夢中になって街を駆けた。

 「やっぱりだ!俺の言った通りじゃないか。最初からコナミなんて奴は気に食わなかったんだ!」
 PCエンジン友達の一人が、勝ち誇ったように嗤う。
 しかし、それから約一ヵ月後、まさにそいつの手には、『ときめきメモリアル』が握られていた。
 俺達は、考えられる汚い言葉を総動員して罵った後、半泣きになったそいつを連れて、みんなで『ときめきメモリアル』をプレイすることにした。もちろん、今度は実際の画面を見て、改めて嘲笑してやろうという魂胆だ。
 そしてオープニング画面が流れた瞬間、俺達は凍りついた。そう、この瞬間から、もう一つの青春が始まったのだ…。
 ホント、どうしょうもないアホさ加減だね。
 安倍首相退陣ッスね。って、最近ちょっと話題が遅いんだけどさ。
 う〜ん、いずれこうなるとは思っていたけど、このタイミングとはね。ココを乗り切ったから、しばらく退陣とかはないのかな…と思った矢先って感じだった。
 それにしても、ちょうど今は無職だってのもあって、あの会見も生放送で見たけどさ。無様…ということになってしまうのかな。だって、小沢さんとの党首会談を断られたからってのが一番の理由だって言い方でしょ。そりゃ民主党によって退陣に追い込まれたましたって言ってるのと同じじゃん。最も言っちゃいけないことのような気がするけど…。ホント、良いブレーンはいないのか?俺を雇えっての。
 ただ、俺は色々勉強したりすること自体は嫌いじゃないんだけど、どうにも政治の話ってのはねぇ…あまり得意じゃないのよ。政治理論や経済理論なら興味あるんだけど、政財界の話とかさ、正直言って、興味ないの一言に尽きる。
 机上の話ばかりだって揶揄されそうだけど、確かにそういう面はあるんだよね。実存的なことしか興味ないのかも。実存的ってのはアレだ。自分のことと、後は自分の周囲1メートルくらいのこと、それと世界の終わりにしか興味ないってことなんだけどね。
 世界の終わりなんて言うと、ちょっとカッコつけてるみたいに思われるかもしれないけど、これがなかなか重要な概念でさ。基本的には世界に対して興味はないんだけど、世界の終わりには興味ある、何故なら、世界が終わることが自らの死と等価だからで、逆に、世界の終わりに対してしか、世界には興味がない…っていう思考回路が、特にオタク的感受性の強い人々にはあると思うんだ。なんとなく伝わるでしょ?
 これは、特にポストモダンと呼ばれる創作活動全般に言える一種の流行でもあるんだけど、例えば、世界の終わりとも言えるカタストロフに巻き込まれた主人公が、内面的な葛藤に押し潰されそうになりながら、人類を救済する=葛藤から救済される…っていう物語のパターンが多いってことなんだけどさ。典型的なのはエヴァンゲリオンだよね。
 内在と超越とか、あるいは、現実界と想像界とかのラカン派精神分析の用語を使ったりしても語れるんだろうけど、ここはもう少し軽くさ、よく「良識ある」大人達が、「最近の若い奴等の本や音楽は、自分のことと世界の終わりのことしか扱ってない」なんて怒ってるのに集約されるんじゃないかな。ライトノベルやJ-POP、ゲームなんかでも、世界の終わりや、破滅の後の世界なんかを扱う作品は非常に多いよね。
 それでも、一時期(80年代から90年代)に比べては、さすがにそういう風潮も無くなってきたとは思うけど、ベタになりすぎてきたってことで、別にみんな嫌いじゃないだろうからね。結局、みんな実存的だってことか。自分のことと、自分の周囲1メートル、後は世界の終わりくらいにしかリアリティを感じられないと…。あとは、せいぜい自分の周囲何メートルまで広げられるかって程度の問題だね。でも、普通は自分の周囲1メートルに普通に入ってこられる人間、つまり、肉親や友達くらいの死までしか悼まないでしょう。見ず知らずの人の死に対して涙を流してるヤツがいたら、ちょっと不思議に思うもんね。
 まぁ、何が正しい感性なのかは分かりませんよ。現実社会に対してコミットしていくのも大切かなと思うしね。それにしても、本当に政治について語らなかったなぁ…。
 9・11からもう6年っすか。やっぱあの事件は衝撃だったよね。俺は事件の瞬間はちょうどバイトしてたんだけど、友達から何通もメールが入ってさ、「いよいよ世界が終わるみたいです!」って感じのが…バカだねぇ。でも、そう思わせるようなものがあったのも事実だったかな。リアルタイムでテレビ観ていた人達にとってはさ…凄い事件が起こったと思って観ていたら、もう一機が突っ込んできて、テロだと分かった…みたいな感じだったわけでしょう。まぁ演出的にもよく練られた感じがするね。
 しかも、21世紀最初の年だからさ、新世紀に対する期待や明るい展望みたいなものを、全てブチ壊したみたいなところもあるわけで。さらに言えば、アメリカじゃ9月から新学年が始まるんでしょ?そういう希望に満ちた時を狙うってのは、やっぱり効果的だろうね。
 ハンチントンの『文明の衝突』なんて本が当時よく挙げられたけど、この事件を受けて、20世紀は東西の戦いだったけど、21世紀は南北の戦いの世紀だ、とか、戦争の時代からテロの時代へ、みたいな紋切り型の評論が頻出した。もちろん、それがある種の真実ではあるんだろうけど、それじゃテロリストの狙い通りというか、世相を暗くするのに一役買ってるようにしか見えないでしょ。

 でも、興味深いのはやっぱ陰謀説だよね。実はアメリカ政府は知っていた、あるいは、むしろアメリカ政府が率先して引き起こした…みたいのが、かなり早い時期からあったと思う。アンケートなんかやっても、結構な割合のアメリカ人が、この事件に対して懐疑的な、煮え切らないものを感じているようだけどさ。
 いや、俺も陰謀説なんて大好きなんだよ。『東スポ』でも『ムー』でも、まぁ普通のテレビ番組でもだけど、陰謀説なんて取り上げてたら観ちゃうしもん。同時多発テロでも、ダイアナ妃事故死でも、アボロの月着陸でも何でも問わずね。
 ただ、正統なアカデミズムの人間は、陰謀説を取ってはならないっていう不文律があるのよ。科学的じゃないってことでさ。ようするに、アカデミズムの世界で正しいと実証されていないことを無前提に支持すると、異端者と見なされて追放されるなんてことがあるわけだ。特に陰謀説なんていうのは、黄金パターンとして、『この世界は、ある少数の人達によって動かされている』みたいなのがあるわけでしょう。それ自体が科学的じゃないんだよね。
 科学的なスタンスからすれば、政治も、経済も、歴史の流れも、特定の人々の意思ではどうにもならず、固有の法則、システムによって動いている…ってことになるわけで、陰謀説ってのは、それを否定するような面もあるから、なおさら敬遠されるんだよね。
 もっと言えば、陰謀説が蔓延することによって、特定の人々に対して社会的圧力が加わることもあるわけ。ホロコーストだって、ユダヤ陰謀説から端を発したみたいな面もあるし、日本でも似たようなことはあったわけだ。そういう過去の悲劇を鑑みても、科学的に実証されていないことを、特定の人々の陰謀だと結論付けるのはヤメましょう、という理性が重視されるようになったわけ。
 だから、俺のようなアカデミシャンは、こういったブログでも陰謀説に与するわけにいかないのよ。そういったフラストレーションが、ゼーレ萌え、とか、架空世界の方にいくんだけどね!いや、マジでゼーレは世界を動かしてますよ!萌え。
 『ヱヴァンゲリヲン』の公式サイトを見てみました。実はあまりちゃんと見てなかったんだよね。ていうか、最近このブログでエヴァ関係が多くなってきたな…。別にアニメ系ブログじゃないんだけどね。
 しかし、あのゼーレのマークはカッコいいっすね。ありゃケータイの待ち受けにしたいよ。元々、俺なんか秘密結社萌えだけどさ。やっぱり、マークや紋章があるってだけでも心を昂ぶらせるね。
 でも、やっぱ上手いよ。ツボを心得てるっていうかさ。モチーフである知恵の実とヘビってのは、言うまでもなく旧約聖書の有名な一節からの借用ってことだろうけどね。普通、ヘビ(サタン)を自らのマークにするってのは勇気がいることだと思うけどさ。でも、これでゼーレが神に背かんとする組織だってのが明確になってイイのかも。神(自然の摂理)に背いて、人類を人工的に進化させるというね。
 そうなると、サタン=ルシファー=残酷な天使=エヴァンゲリオンという構図も見えてくるしね。神の使いである天使=使徒と次々と戦っていくというのも、エヴァがサタンだからでしょ。つまり、エヴァってのは、サタンの側の物語ってことなわけだね。
 サタンの側の物語っていっても、この世界が悪に満ちたものであるみたいな、グノーシス主義的なものでは勿論なくて、ある種の隠喩というか、サタンを思想的に擁護するみたいなことなんだけど、これは現実の思想潮流の中にも結構あるからね。
 こういう例を出すとゼーレ諸氏から怒られるかもしれないけど、ロシアの思想家でアナーキズムの創始者バクーニンは、イブ=エヴァが知恵の実を食べたこと、そして、ヘビ(サタン)が、その知恵の実を食べるようにそそのかしたこと、これを、自由の原点として讃えたなんて話があるわけ。つまり、人類が楽園を追放されたことを、否定的な形で捉えるのではなく、自由を手にしたという肯定的な形で捉えようってことだ。アナーキズムなんていうとちょっと抵抗ある人でも、(国家権力からの)自由ってのは人類にとって根底的なものだというのは、いわゆる自由主義の要諦だからね。人類に真の自由を与える為に神に背くって辺りは、ゼーレのやや陶酔的な「人類補完計画」とも適ってるんじゃないかな。
 ただ、人類補完計画については、どうにも腑に落ちない部分もあるんだけどね。そこまで苦労してまでも実行するほどのものなのかなぁ…みたいな。あまり言うと、物語の根幹に関わるネタバレになっちゃうけどさ。
 碇ゲンドウのスタンスは理解できなくはないんだ、碇ユイに会う為みたいなとこは。でも、ゼーレの言う、全ての人類を完全なる一つの個体へと進化させる…みたいなのは…どうだろう、ひょっとしたら、もう少し何か真意があるのかもね。結局、この人類補完計画ってのはまだエヴァの中でも未解決のナゾだと思うんだ。何かテレビ&急劇場版で語られた以上の秘密がありそうですな。そういう意味でも、新劇場版には期待か…。
 なんか、ホントにエヴァの告知みたいになってきたね。ガイナックスから表彰してほしいものだよ!
 しかし、最近の日本ってのはある意味で平和なのかね。格差だネット難民だなんていって、社会的な矛盾というか、資本主義の矛盾のような社会現象が起こっても、暴動一つ起きないじゃない。いや、別に扇動してるわけじゃないけどさ。色々な不祥事や不正事件みたいなのを見ても、本当に許せネェなんて言ってプラカード持って歩いてる人なんて、もうホンモノの運動家みたいな方々ばかりでしょう。
 安保闘争だなんて言ってた頃は、まぁそこまで深く考えてない人が大半にしても、一応社会だとか、資本主義というシステムだとかを転覆しなくてはと考えていた人達がいたわけで、実際に、大きな運動になったわけだ。でも、当時、つまり60〜70年くらいって、「戦後」も終わって、日本は大きく成長しようという希望があった時期じゃん。それに、運動の中核となった大学生たちとかってのは、それなりに社会的に恵まれた人達ばかりだったわけでしょう。
 そういう意味では、インテリが観念で始めた運動だったともいえると思う。マルクス的な、本当に搾取されている労働者が団結して資本家を倒す…という運動ではなかっただろうってことだけどさ。
 まぁ、革命なんてのはそんなものだろうね。本当に最下層からの革命なんて難しいんじゃないのかな。それなりに人脈や経済力、そして、それなりの方法論や理論のようなものを持っている人達でないと無理でしょう。

 で、現在の話になるんだけどさ。フリーターやニート、ワーキングプアなんて人達から社会運動や革命なんて言葉が聞かれてこないのは、ナゼなのだろうと…。
 まぁ全部繋がってはくると思うんだけど、モチベーションというのかな、一生懸命働いてるのに資本家に搾取されて…みたいな怨恨はないでしょう。こんな現状でイイかな、なんて思ってる人がほとんどというかさ。一生懸命働くのがイヤだからニートやってます、みたいな。そういう人達から、革命だなんていうトンデモないエネルギーを使うものが出てくるとは思えないよね。
 それに、人脈、経済力、理論なんてものが無いということだろうけど、これはねぇ…そこまで無いわけでもないと思うんだ。経済力なんてのは、それでも、まだそこそこあるでしょう。本当に動けないほど貧乏なんて人は少ないだろうからさ。理論もね、大学全入学時代なんて言ってるけど、それなりに勉強しようと思えば、誰でも勉強することは出来ると思う。
 そして、人脈というか、運動に至る為の連帯はさ、今はホラ、インターネットってものがあるでしょう。ネット上の連帯で現実的な活動に至る…というパターンがあっても良いと思うんだけど、コレが実際にネット上を見てみると、社会に対する怒りなんかは確かに蔓延してるけど、それが社会改革といったような活動の苗床とならずに、外国を蔑視したりして、日本を相対的に持ち上げ、自らの自尊心を回復するという、啓蒙の苗床となっているようだね。乱暴に言えば、左的な活動ではなく、右的な啓蒙と言っても良いかな。
 結局、ネットを介した連帯による活動という方向にいかず、むしろ、ネットがガス抜きになって、活動に至らないというような流れがあるだろうってことなんだけどね。でも、そのガス抜きが、弱者が更なる弱者を嘲るような形で行われているとしたら、不健康な感は否めないけどね。これも必要悪なのか、どうか。
 『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版』、評判良いみたいっすね。ホームページ見た感じでは、今回の劇場版は四部作で、今公開中の第一部は、テレビ版の総集編的な感じらしいけど…。どうやら、次の第二部から、テレビ版とは全然違うものになっていくらしいとの話ですな。その辺の「テレビ版との違い具合」ってのがどれくらいなのか気にしてたけど、そりゃやっぱり違う方が嬉しいからね。でも、ほぼテレビ版をなぞる形で作られた第一部でさえ、かなり周りの評判良いからね。こりゃやっぱり観にいきたくなってきたわ。

 テレビ版は、実は俺は本当のリアルタイムでは観てなくてさ。95年でしょ?確か、俺の地元じゃ、そもそも放送されてないんじゃなかったかな?だから、ウワサだけだったけどさ、もちろん興味はあったし、色々情報は収集してた。
 ちょうど阪神大震災やオウム事件があった年だから、世紀末的不安感が蔓延してたというか、そういう世相にも合ったんだろうね。セカンドインパクトとか、そういった言葉にもある種の説得力があったしね。もちろん、作品として普遍的な面白さはあると思うけど、放送された時期ってのがブーム形成の上で大きな役割を担ったってのはあるでしょう。
 で、俺が観たのは翌96年なんだ。深夜に、四夜連続みたいな感じで放送したんだよね。結構アレで観た人も多いんじゃないかな?本放送ってのは、だいたいみんな見逃すものじゃん。特にエヴァなんて、漫画とかの原作があるわけじゃないから、事前の情報もないしね。だんだん盛り上がってきたって感じでしょ。本放送で最初から全部観てましたなんてのは、結構少ないんじゃないの?
 本当に社会現象になったのは、放送後半くらいからだった気がするからね。世間の印象も、『エヴァンゲリオン』っていう、なんだか凄いアニメがあるらしい…って程度だったハズだったから。
 そこからエヴァブームというのが始まっていくんだけどさ。メディアが言うほど一般的なブームでなかったことは明白だけど、オタク的感受性の高い人達の注目度は確かに凄かった。後は、やや精神的に弱い方々が、登場人物に自分を重ね合わせて、苦しい思いをしながら癒される…みたいな、救済ツールとしての存在感もあったね。いや、この救済ツールに対するファンってのは、熱狂的だからね。まぁ、救済ツール系ってのは、作品なんかの一つの売り方ではあるんだけど、少数の熱狂的なファンだけがついて、一般人は冷めた目で見てるって感じになりやすいのよ。ある種のヴィジュアル系バンドや、ヒーリング系の本とかさ。エヴァの他に、一般人まで巻き込んで成功した例といえば…浜崎あゆみとかかな。心に傷を持った自称「ギャル」の救済ツールとしても成功したよね。
 この救済ツールの方法論としては、共感と超越、その先にある救済というシナリオを作ることかな。
まず、「私と同じような悩みを持った人(物語)があるんだ…」という共感でしょ。そして超越ってのは、非日常みたいなニュアンスだけど、世界の終わりとか、そういった世界観を与えるってようなことね。ツライ現実以外にも世界があるんだという提示だ。エヴァのように、やや本来の意味をはずれた、小難しい、ジャーゴン化された言葉を多様するってのも有効な方法なわけ。
 そして勿論、最終的には、救済に向かうことになるわけだけど、エヴァの特殊性は、結局その救済が完全には行われないとこなんだよね。これは、登場人物の救済というよりは、観ている方の救済のことでさ。ほら、登場人物なんかいくら不幸になっても、それを観ることによって癒されるということもあるからさ。ある種の安心感というのかな、こういう形で話が進んでほしい、という期待感のようなものを、エヴァは裏切ったということなんだけどね。観ている方と『エヴァ』の間に出来つつあった暗黙の信頼関係のようなものが崩れるということ。だから、救済を求めてエヴァを観ていた人達からすると、特にテレビ版最終二話なんかは、文字通り、裏切られた!という思いを持ったみたいね。
 そして、そんな人達を、庵野監督は実際に裏切りたかったんでしょう。旧劇場版なんかにも、そんな悪意めいたものが感じられたけどね。でも、その割りには旧劇場版は、意外と誠実に、きっちりと答を提示したような気がするけど…。さぁ、新劇場版では、どうやって仕掛けてくるのか…。
 今日はドラえもんの誕生日ですねー!2112年生まれだから、実際に生まれる(?)のは、まだまだ先の話なわけだけどさ。
 でも、俺の中でのドラえもん熱はもう冷めてしまった感じかな。いや、年齢的なものでっていうような寂しい理由じゃなくて、藤子・F・不二雄先生が亡くなられたってからっていうのが一番大きな理由なんだろうけどね。まぁ、そっちの方がもっと寂しい話か…。
 でも、実際は随分と前から冷めてはいたんだけどね。やっぱ大長編がねぇ…つまらなくなってたでしょ。俺の中では、せいぜい言っても10作目の『のび太とアニマル惑星』辺りまでかな。それ以降は、もうほとんど観る気もしなかったよ。まぁ、一応観たけどさ。半分は義理みたいなもんだ。
 ちなみに、俺的最高傑作は『のび太と鉄人兵団』で決まり。やっぱ大長編の魅力はサブキャラだと思うけど、リルルは最高でしょ。前期の大長編には本当に魅力的なサブキャラが出ていたけど、リルルの完成度は別格かな。ロボットと心とか、SFの最重要テーマみたいな所を、一応ロボットアニメである『ドラえもん』はずっと触れてこなかったわけだけど、この作品で心が痛くなるくらいまで描いてくれたね。
エヴァの公開辺りからかな、リルルをリリスと読み替えての謎解き的な再考も流行ったけど、それもこの作品が未だに愛されてるからでしょ。
 ちなみに、挿入歌はやっぱり『のび太の宇宙小戦争』の『少年期』が白眉だけど、『のび太とアニマル惑星』の『天までとどけ』も良いッスね。小泉今日子が歌った、『のび太の魔界大冒険』の『風のマジカル』も大好きだったけど、これは色々と大人の事情で、現在のビデオやDVD版では聞けないのだとか…。寂しい話ッスね。
 大長編のクオリティが下がった大きな理由は、藤子先生自身が、「子供向け」路線に切り替えたからってのが大きいでしょう。これはねぇ…たとえ子供でもさ、子供向けに作られた作品よりも、大人向けに作られた作品を観た方が面白いと思うし、得るものも多いと思うんだよね。さらに悲しいのは、藤子先生自身が、「子供向け」という言葉を言い訳のように使ってるところなんだよなぁ…。いや、本当に『ドラえもん』から色々学んだ俺としては、そんなこと言いたくないんだけどさ。でも、それだからこそ、もっと「大人向け」の『ドラえもん』が観たかった。晩年の名作『T・Pボン』くらいの温度の『ドラえもん』を観ることができたら…とは思うね。庵野秀明が『ドラえもん』の大長編撮ってくれないかな。いや、やっぱそれは観たくないか…。
 でも、『ドラえもん』の大長編の問題は過去の話として、現時点での問題は、やはり新声優のことなんだけどね。正直言って、俺、新声優になってから、一度もドラえもん観てないのよ。友達に聞いても、なんか作風自体も変わったっていうしさ、ガッカリしたくないんだよね。そういう意味では、やっぱり俺の中での『ドラえもん』は、もう終わってるんだろうね。あれこれと今から色々と追加していかなくてもさ、コミックス45巻までと大長編だけで充分だと思うんだけどさ。何をやっても蛇足に見えてしまうよ。
 こないださ、人はIQが高いほど頭が良い、なんて本気で言ってる奴がいてビックリしたけどね。いやぁ、こういうのってなんなんだろう。そもそも、頭が良いとか悪いなんていう言葉を簡単に使う時点で終わってる場合が多いんだけどさ。だいたい、脳っていう、多様で総体的な機能を持つものに対して、良いとか悪いっていう二元的、絶対的な形容を行うのはどうしたものかと。
 どういう頭が「良い頭」なのかというのは、人類の永遠の課題でしょ。俺も小さい頃から考えているテーマだから、一家言あるんだけどさ、まぁそれはちょっと偏った意見になるから、今回は控えておくよ。でも、少なくともIQじゃない気がするけどねぇ…。
 たぶん、受験の影響でしょ。大学受験とか、受験勉強は確かにIQが高い方が有利だというのが通説で、実際、ある程度統計的にも裏付けられてるみたい。そういう意味では、偏差値が高い人ほど頭が良い、なんて言ってるのと大差ないってことだね。今時そんなこと言ったら、バカだと思われるでしょ。でも、IQに関しては自然とまかり通ったりして…このIQ神話はなんなんだろうね。
 俺も今まで何人か、自分はIQが高いと自慢している人を見たことがあるけどさ。だいたい120とか130程度なんだけどね。だって、そんなこと言ったら、IQの公式記録って、マリリン・ヴォス・サヴァントっていうアメリカ人の女史で、その数値は確か228だからね。そういう数値を聞くと、百数十程度で何か言ってるのが馬鹿らしくなってくるよね。
 俺の見た感じ、IQが高い系の人間の傾向として、「多様な分野で能力を発揮する」「幼少期から才能が開花する」「多くの文章を残す」「格言、名言を多く残す」というのがあるみたいね。IQが、脳の情報処理能力のことだと考えると、我ながら的を射てるって気はする。でも、必ずしも質を伴うかっていうと、怪しい場合も多いね。単に多産で早熟なだけのバカも多いから。
 コックスっていう人が、1450年から1894年までの著名人のIQを予測した有名な研究があるんだけどさ、それによると、最高レベルのIQが予測されたのは、J.S.ミル、ゲーテ、ライプニッツの三方だけどさ。確かに、この三人は間違いなく天才でしょう。かのバートランド・ラッセル卿も、ライプニッツが人類史上最高の頭脳だ、なんて言ってたような気がするけどさ。でも、これもあくまで予測のIQだし、コックスの予測で130とか、並みの優等程度の頭脳の人でも、人類史上にその名を轟かす天才たちは何人もいるわけだし。
 実際にIQが分かってる人でもさ、例えば、誰もがその数学的、物理学的才能に関しては天才だと認めた、かのノーベル賞学者リチャード・ファインマンだって、確かIQは120とちょっとだった気がするね。それに対して、その辺の凡人が「俺はファインマンよりIQが高いから、ファインマンより頭がイイ」なんて言ってたら、救いがたいほどのバカだと思うでしょう。あくまで脳の種類が違うって程度の話にしか過ぎないってことだね。
 ただ、IQが高いと、記憶力とか計算力は確かに有利かもしれないけど、これからはそういう、どちらかというと脳の機能の中でもレベルの低い部分ってのは、コンピュータに代替されていくでしょう。となると、今まで以上に、想像力や創造力が評価されていく時代になると思うからね。IQで計れない部分の重要性は増していくでしょうな。