批評学園

日常・非日常を批評するブログ。

 アダルトゲームの規制という問題について、前回は芸術的というか、美学的な面からのアプローチを試みたが、もちろん、科学的にアダルトゲームを擁護しようというものではなかった。つまり、アダルトゲームなどというものは本質的に影響力の強いものであって、良きにつけ悪しきにつけ脳が作用を受けるに決まっていると。しかし、それだけ強い影響を与える物であるならば、それは素晴らしい芸術作品だとも言えるのではないか。したがって、アダルトゲームの素晴らしさを認めた上で、表現の自由という観点から、擁護すべし…という類のものだったわけだ。
 実際のところ、アダルトゲームが芸術的な創作活動だと理解されるなどということは、まぁ今後百年は無いだろうということで、上記のような積極的肯定ではなく、消極的肯定、つまり、アダルトゲームを行っても、悪い影響は無い…という方向に議論を展開していくのが、科学的擁護だということになるだろう。アダルトゲーム信者には、いささか不本意な戦略ではあるだろうが…。

 こういった議論自体が真剣に語られ始めたのは、約二十年前、宮崎勤事件の頃からだといって良いだろう。氏が捕まったのは89年のはずだが、それから議論が有意義な形で進展したかというと、なかなか怪しいところ。
 そして、未だに参照されるべきは、精神科医である香山リカの論説だ。これももう十年以上前のものだが、曰く、ゲームをやることによって人付き合いが出来なくなったり、異常な行為を行うのではない。むしろ、人付き合いが出来なかったり、平均的な物の考えが出来ないような人でも、ゲームに対しては心を開き、積極的に参加することが出来る…というものだ。
 これは、香山自身が引きこもりの子供の相手などをして、現実社会では外に出ることすら出来ないような子が、ゲームの中ではドンドン冒険していったりする様子を見て確信した論説なわけだが、ゲームを悪と決め付ける世論に対して、一石を投じる結果にはなったと思うし、現在振り返ってみても、一面の真理はあると思う。
 ただ、どうしても一面にしか過ぎないのは、必要条件と十分条件の区別の論拠が曖昧だったからだ。つまり、【コミュニケーション不全(ならば)→ゲームが好き(になる)】は、香山のフィールドワークの結果言えたとしても、【ゲームが好き(ならば)→コミュニケーション不全(になる)】という図式はありえないというところが、どうしても香山の勝手な推論でしかないという印象を与えてしまった。そこの否定に明快な根拠がないといけないのだが、香山もそこは歯切れ悪く、「私自身もゲームが大好きだが…」といった程度の、その辺のオタクと同様のレベルに終始してしまった感がある。
 今では、ゲームを行うことにより、正にしろ負にしろ影響を受けるのは、もはや当然だと考える方が普通だろう。酒なんかと同じで、精神的に強い人間が適度な時間を守って遊ぶくらいなら問題ないが、依存傾向の強い人間が長時間遊ぶと、悪い影響を受けるだろう…といった辺りが常識的見解ではないか。
 さらに、最近ではゲーム好きの間でも、「あんなゲームやってたら、頭がおかしくなる」という会話が飛び交うくらい、相対化や棲み分けが普通のことになっている。相当ゲームが好きな人間でも、アダルトゲームをやってる人間と自分は違うと思ってる人は多いだろうし、軽蔑こそすれ、まさか擁護なんてするはずもないだろう。
 90年代前半くらいまでなら、ゲームが好きというだけで連帯できたのだが、今ではもう夢物語だ。ゲームという文化が完全に根付いて、爛熟を極めた結果だと言えるのだろうが、多様化、細分化、相対化がなされていくポストモダン的な傾向がもたらすものは、はたして幸せな未来だろうか。そして、その中の一部ジャンルが先鋭化し、過激化していったとしたら、ゲームが暴走していく可能性は高い。香山氏も、その時はもはや擁護できないだろう。
 原油の高騰が止まりませんね。俺みたいに車を運転しない人間でも、さすがにこれは気になるよ。だって、石油製品は勿論、直接的に石油関係ないものでも、製造過程や輸送過程などで石油が使われたりするから、様々な物価の上昇に影響するのは明白だ。実際、燃料代がかさむことが一つの理由になって、マグロ漁船が漁に出なくなってるなんていうニュースもやってたしね。
 原油高騰については、色々な要素が絡み合ってるようだけど、一番の原因は投機目的のお金が流入してきてるってことでしょ。ようするに、バブルってことだね。バブルというのは、狭義には資産インフレのことを指すようだけど、広義には、投機目的の金が流れてくることによって、価格が高騰することだと言って良いと思う。日本の80年代後半のバブルは典型的なもので、土地が上がることによって、投機目的の金が流れてきて、さらに、その価格の上がった土地を担保に借りた金で、ますます土地を買い、土地の価格もうなぎ登りに上がっていく…という、循環システムが出来上がった状態だ。かつて、オランダでチューリップバブルなんてのがあったし、最近ではITバブルなんてのもあった。
 でも、基本的には、このバブルってのは良くないものなんだよね。本来それほどの価値がないものが高騰して、まさに見かけだけ膨らむ現象だからさ。狂乱の後には、すっかり価値の下がった物件と借金の山、つまり不良債権が残るっていう寸法だ。これは、もう歴史的に自明のことなんだよね。

 バブルという現象は、アダムスミスの「神の見えざる手」とまとめられる、市場原理の機能が上手く作用しない例として挙げられる。つまり、本来なら、価格が上がれば需要が減り、仕方なく値下げをせねばならない状態になり、結果、価格は適正に保たれる…というのが市場原理なんだけど、バブルの構図として、価格が上がったものに対して、投機目的の金が集まるということがあるわけ。価格が上がる傾向が見えたら、それを買うことにより、もっと高くなった後に売り抜けようっていう算段が働くわけだからね。そうすると、買おうという人がたくさん現われ、その結果、さらに値段が上がっていく…となるのは、すでに述べた通り。もちろん、長い目で見れば、バブルなんてのはいずれ破綻するわけで、市場原理は働いているようにも見えるけど、そこに残す爪あとが大きくて、事前の対処が望まれるわけだ。
 そういった、市場原理が上手く機能しない部分を人為的にコントロールしようというのが、J.M.ケインズの理論なわけだけど、市場に影響を与える要素というのは多様であって、なかなか完全にコントロールしているとは言いがたい状況だ。
 とりあえず、市場に影響を与える要素が見えにくくなったのは、マネー経済の爛熟が原因として大きいと思う。もはや、世界中のお金のほとんどが実物経済ではなくてマネー経済によって動いているわけで、投資家達の動向によって市場が動かされてしまっている。一見したところ、投資家達全員が儲けようと画策することによって、様々な物が値上がりし、現実的な経済活動に支障をきたすという、ゲーム理論で言うところの「囚人のジレンマ」のような状態になっていると見えるが、実は、ここでの問題は、この利益と不利益が影響する社会的階層が違っているという所にあるのではないか。つまり、石油や穀物などが値上がりすることによって利益を得ているのは、一部の「金持ち」だけで、大部分の「貧乏人」は、これによって不利益を被るわけだ。マネー経済での投機などにより、世界の格差が拡大していると言わざるをえない。この経済システムは、なんとかしないといけないのではないか。
 「アダルトゲームで青少年は心を破壊され、人間性を失う」−。民主党の円より子参議院議員らが提出したアダルトゲームの規制を求める請願に対し、同議員のインターネットサイトの掲示板に、数百件の批判的な意見が寄せられている。

 これ、ちょっと前のニュースだけど、アダルトゲームに対する公的な発言ってのはなかなか無かったから、興味深く見させてもらった。アダルトビデオやら、風俗、猥褻画像なんてのに対してはあったけど、アダルトゲーム(エロゲー)に対する公的な意見が少なかった理由は、それが「あまりにも度を越えて品が無い」と思われていたからだと思う。アダルトゲームなんていう下劣な代物を知っているというだけでも、人間性が疑われる…みたいなさ。確かに、殊更に幼女を扱ったものや、実写では不可能なほどのインモラルなものを題材にしている作品も多いからね。
 で、こういったアダルトゲームを取り締まろうという請願を行った議員の掲示板に、批判的な意見が集中したって話らしいんだけどさ。正直言って、この辺のやりとりは、宮崎勤事件の頃から変わっていないなって思う。メディアが悪いのか、人が悪いのか、因果関係は認められるのか…案の定、双方共に感情論になってしまっているようで、なかなか科学的に意味のある議論になる場合は少ないようだ。
 エロゲー擁護の意見としては、「俺もエロゲーをやるけど、ちゃんと社会人をやっている!」といった系統のものと、「エロゲーはそんな酷いものばかりではない。感動的な話を扱ったものが多いのだ」といった系統のものが多いように見える。ただ、これらはそれほど意味のある意見ではないだろう。
 まず、前者の系の意見が的外れだと思うのは、この議題の論点が、「エロゲーをやることにより、人格に異常をきたしたり、犯罪を促すことがあるのではないか」という「可能性論」にある以上、ある一人のサンプルを取り出して、その人がエロゲーから負の影響を受けていないことをもって、因果関係が無いと断言するのはおかしいからだ。それに、もっと言ってしまえば、本当にその人が正常かどうかなんて分からない話だからね。一見正常な人や、社会的地位がある人が猟奇犯罪を犯すなんてこともあるわけだし。
 で、後者の方の議論は、単なるエロゲー内のジャンルの話だからね…。確かに、現在のエロゲーの潮流は、ここ十年くらい、ずっと「泣き」系の純愛モノが売れ線ではある。でも、エロゲーに理解ある人でもドン引きするような「鬼畜」系だって勿論あるわけで、突き詰めれば、単なる好みの問題に還元される。

 それに、エロゲーに「強い負の影響力があるか」と、エロゲーを「規制すべきかどうか」というのは、強い相関関係がありつつも、必ずしも同列に論じられるべき話ではない。そんな当然のことを相対化して考えようという意見が少ないのが、そもそも議論を矮小化しているように見受けられる。
 例えば、エロゲーを擁護しようという人が、エロゲーには悪い影響力が無いと言い張るのは、本当はむしろおかしいのではないか…。サドやボードレールを挙げるまでもなく、優れた文学には反社会的、非倫理的な描写や題材が付きものであって、それら作品には、人を魅了する毒があったし、実際に、発禁の憂き目に遭ったものもある。しかし、そういった作品群が持つ煌きは永劫に失われることはない。本当にエロゲーが素晴らしく、人間の根本を揺さぶるような作品であるならば、軽々しく紐解いた心弱き者を魅了し、悪の道に堕としいれるほどの魔力があるという可能性もあるだろう。それだけエロゲーの危険さを承知の上で、それでも、「これは素晴らしい作品だから、規制するべきではない」と言えるかどうか。それが、本当にエロゲーを愛する者のとるべき立場ではないのか。
 村上隆氏、どうなんでしょうねぇ…。先日の『TIME』誌で、「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたと思ったら、今度は氏のフィギュアが16億円で落札されたなんていうニュースがあって、なかなか驚かされた。
 村上氏と言えば、大文字の「美術」というよりは、「ポップアート」という領域の人だし、少なくとも日本の「正統な」画壇とは一線を画している印象だけど、日本の「正統な」画壇の外にあるものが海外で高い評価を受けるというのは、浮世絵に始まり、いわゆるジャパニメーションの領域でも見受けられる現象だ。むしろ、逆輸入される形で、そういったものの方が「正統な」存在になっているような系譜がある。
 元々、村上氏といえば東京芸大の日本画科出身で、しかも、オタク文化を大胆に取り入れたデザインで一世を風靡した人間なわけであって、ちゃんと日本画の基礎を踏まえた上で、外国人の考える日本の美術の王道を進んでいるように見える。少なくとも、日本で大御所と呼ばれるような大先生の作品でも、海外に出れば紙くず同然…みたいな話は珍しくないようだし、世界的に見たら、村上氏の方が「正統な」日本美術の継承者なのかもしれない。

 しかし、俺達が村上氏に対して感じるこの違和感は、一体何なのだろう。すでに多くのサブカル系論者によって指摘されていることだが、村上氏の描く、または造形する作品というのは、独自のものというよりは、日本のサブカルシーンを体よく引用しているに過ぎないのではないか。もっと露骨に言ってしまえば、なんでもないアニメを、「アート」という包装をすることにより、日本の正統な美術の系譜に強引に位置づけ、それを代表する存在こそが自分だという印象を付けることによって、無知な外国人に対して売っているだけ…ということになる。
 もちろん、そういった指摘は、氏の成功に対する嫉妬心が生んだものとも思えるが、作品としての造形自体を、日本のオタクの視線で眺めるならば、さほど完成度の高いものであるとは言いがたいのではないか。もちろん、実際に完成した作品の色彩感覚や技巧的側面などは、確かにクオリティの高いものではあろう。しかし、少なくとも、日本においては村上氏の作るキャラクターは、正統なオタク文化の系譜にあるものとは言えないし、そこに萌えを感じるという人も少ないだろう。オタク達からしたら、村上氏は、オタク文化を、大文字の芸術、額の中に飾るものとして回収してしまったように見え、そこに反発する人も多いようだ。
 日本人からしたら、村上氏の作品は、オタク文化を引用したものにすぎなく、外国人からしたら、これこそが日本のオタク文化だと思っている…というくらいの温度差があるのは間違いないと思う。さらに言えば、日本人にとっては、村上氏の作品というのは、正統な日本画壇の系譜でもなければ、正統なオタク文化の系譜でもない、コウモリのような存在だとも言えるのではないか。
 もちろん、外国人達が高値で取引するのには、投機という目的があるのは間違いない。しかし、それをちゃんと踏まえた上で、自らの作品の価値を、多少はったりをきかせてでも釣り上げていくというのは、特に欧米の画壇では当然のことのようだし、そのくらいの知恵も回らないといけないとは思う。
 村上氏に対しては、アートとビジネスの両立といった形の評言が、やや揶揄されるような形でされるが、「金額」をそのまま「評価」だと置き換え、自らの作品の「評価」を高める為に邁進するというのは、そう簡単に非難できることではない。氏の作品云々については色々あるが、果敢にも世界に挑戦し、それなりの評価を勝ち得ている村上氏は、もう少し評価されても良いのではないか。
 90年代を象徴する存在だったコギャル…、彼女等は、なぜ没落したのか。当初、彼女等に対するパブリックイメージは、「タフでクール」だというものだったようだが、次第に「痛々しい存在」になっていった。今では、ギャルをやっているというだけで、何か精神的に病んでいるのではないかとか、幼少期に問題があったのではないかと疑われるほど、まるで病気の一種のような扱われ方をしているように見える。
 コギャルの隆盛は、ルーズソックスの台頭と時を同じくしているはずだから、だいたい95年前後からだろう。当時、コギャルに憧れている女子が「コギャルの人達は、楽しそう」「悩みとかなさそう」などと言っていたのを覚えているが、その言葉が象徴するように、コギャルは、日常的な細々した事柄に追われながら生きるのではなく、自分の楽しいことを、快楽に任せるままに生きる…という生き方をしている存在だと思われていたようだ。
 当時、コギャル文化を支えていたのは、ストリートやクラブという場所だったと思う。日常の延長としてのストリート、非日常的な空間としてのクラブという差異はあれど、「自由に」、「まったり」過ごすということがキーワードになっていたのは間違いない。この辺りに、コギャルのタフさとクールさを見出していた人は多いようだ。

 そのタフさとクールさを持ち合わせていない人の代表格が、当時、社会現象となっていた、AC(アダルトチルドレン)といった人々だった。辞書的な解説をするならば、自分が社会的に承認されていないことに実存的な不安を感じ、自傷行為を行ったり、ある種の自傷行為としての売春を行ったりして、ようやく他者から承認されたと思える人々…だといえよう。
 そんなACが注目されている中、それと対極の存在として、人生の処方箋として挙げられたのが、一つはコギャル、もう一つはオタクという生き方だった。双方とも、実存的な不安を払拭する為に、依存すべき大きな体系を享受することによって、現実から目を逸らし、その結果、まったりと、自分の好きなことをして生きる…というスタイルだと思われたからだ。
 しかし、実際は、ACと呼ばれる人達の大半が、コギャルかオタクに属していることが明らかとなり、この図式は一気に崩壊することになる。その結果、周りに流されず、内発的な意志で人生を選んでいる「普通の人達」こそが本当にクールなのではないかという凡庸な結論が引き出された。
 そんな中、酒鬼薔薇という少年が現われ、世の人達を驚嘆させることになる。オタクやギャル達は勿論、普通の人達でさえ、完全には内発的な自律を行うことが出来ず、共通の価値観に依存してしまうというのに、彼は軽々とホンモノの脱社会的行為を働いたのだ。特に同世代の少年少女から、酒鬼薔薇こそ、本当にタフでクールなのではないかという議論が噴出したのも、分からないではない。彼こそが、周りに縛られず、自分の意志で自由に生きる人間に映ったからだ。
 しかし、良識ある大人達からは、あれは「何か大切な物を持っている人間」ではなくて、「何か大切な物を持っていない人間」だというのは、すぐに分かることだった。
 かつて、キリスト教などといった大きな物語に依存せず、自分の意志で行動することが出来る人間を、ニーチェは超人と呼んだ。しかし、この超人という言葉からは、そんな人間になることの困難さをも強く感じられる。人は結局、何かに依存して生きていくしかないのだ。問題は、何に、どの程度依存するかという次元だろう。多様な価値観の中から最善のものを見抜くことこそ、人間にとって一番大切な能力だと思うが、どうか。
 ギャルとオタク女子の類似性については、これまで多くの人間が感覚的に指摘をしておきながらも、理論的な考察は乏しい状態であったと言えよう。今日は、この二つの存在を、出来るだけ具体的な形でモデル化して検討してみたいと思う。
 確かに、一見すると、その外観的な相違から、ギャルとオタク女子は対極のものと捉えられることも多い。しかし、例えば、右翼と左翼など、その発現する方向は対極に見える現象でも、近い位相の別形態である場合が多いというのは、20世紀に繰り返し言及されてきた考え方だ。
 そこで、ギャルの起源をザッと確認してみよう。オタクの方は、俺がしょっちゅう言及してるから、今日は省かせてもらう。まず、ギャルという言葉が使われ始めたのは70年代のようだが、やや卑俗なニュアンスで使われたのは、『アラレちゃん』辺りからではないだろうか。今では死語の代表格として挙げられる、「ピチピチギャル」などといった言葉も懐かしい響きだ。しかし、実際に、「ギャル」が今のような形で使われたのは、確か、99年くらいだったと記憶している。99年が転換期で、それ以前は、「コギャル」と呼ばれていたことは、未だ記憶に新しい。となると、俺達は、ギャルの直接の起源をコギャルに求めなければならないだろう。
 では、コギャルとは何だったのか。まさに90年代の一つの文化的象徴であったという見方が一般的で、それは女子高生ブームとも言い換えることが出来たと思う。それまでの女子大生ブームが、バブルとも重なり、高嶺の花的ニュアンスで語られたのに対し、コギャルブームは、もっと下流な印象だったとは思う。性の低年齢化だとか、援助交際だとかのレッテルが付きまとったが、性的に奔放というよりは、大人の消費物的なイメージで、そこも女子大生ブームとは違った。実際、コギャル達は、表面的にはそういった性的なものを肯定的に受けいれているように見えたが、結局は自傷行為に走ったり、犯罪に巻き込まれたり、マイナスのイメージが大きかったと思う。

 では、オタク女子との類似点は何か。まず、その脱社会性。もちろん、ギャルにもオタク女子にもその社会(コミュニティ)というものは存在するわけだが、学校であるとか、平均的な女子のコミュニティからはハズれた存在であり、同様の趣味を持つ友達と固まることを好む傾向があった。その意味では、クラブとコミケは機能的等価だ。
 双方とも特殊なファッションを好み、男性の趣味が偏っているのも似ている。基本的に、「バカの壁」とも言うべき、価値観の偏りと盲目性が特徴で、例えば、自分の好みの男が、世界標準の価値観だと本気で思っているような人間が非常に多い。「色が黒いほどカッコイイ」なんて平然とのたまうギャルは普通にいるし、オタク女子に関しても、先日、俺自身が、とあるオタク女子から「この地球で一番カッコイイのは小池徹平くんですが、何か?」と言われたばかり。「私はこう思います」とか「あくまで私の意見ですが」と言った、客観的な物言いが出来ないのは、ギャルとオタク女子の共通点だろう。ちなみに、「イケメン」などという言葉を使いたがるのは、ギャルとオタク女子が多いという点も指摘しておく。

 以上のような議論は、当然だが、全てのギャル、オタク女子に当てはまるものではない。しかし、脱社会性というキーワードでまとめられ、価値観の偏りがあることなども納得のいくものだと思う。ベクトルこそ違えど、鏡像関係にあるということだ。ポストモダン論を拝借すれば、多様で相対的な価値観が蔓延する現代社会において、大きな物語にすがってしか生きられない脆弱な存在であるとも言えよう。だが、それが現代社会を生き抜く一つの術であることは間違いない。彼女等から学ぶことは、依然多いと言わざるを得ないのではないか。
 また秋葉原の街が大きく変わっていますねぇ…っていうか、こりゃもうずっと続いている傾向だけどさ。中央改札付近が新しい開発地帯なのかな。つい最近、改札出て右側に大きな建物が建ったよね。中は、まぁ平均的な総合デパートみたいな様相だけど、そういう「普通さ」が欠落していた秋葉では、買い物などで便利な場所であることは間違いない。特に本屋なんかは結構大きくて使いやすいね。オタク系以外の書籍がやや弱かった秋葉市場では新鮮な存在だ。
 秋葉にヨドバシカメラが出来て、他には、最近の秋葉原まんだらけとかもそうだけど、一般的に有名なサブカルスポットが秋葉に進行してきて、秋葉の香りが無くなるんじゃないかと危惧していたけどさ。それらも含めて、秋葉が新しい相貌を見せているような感じがする。混沌とはしているけど、一般向けからコアな所まで、どんな需要でも呑みこもうといった感じだ。
 いや、今から10年くらい前まで、秋葉って街はガラパゴス諸島のようだというか、進化に取り残されて、独自の生態系を築き上げている…っていうような印象があったわけ。つまり、この街でしか見られないようなお店がたくさんあるっていう意味でね。それが、昨今のオタクブーム(?)やら、つくばエクスプレスの開通やら何やらで、秋葉に来る人の数が膨大になって、マーケットとして注目されてから、様々な業界から、このオタクバブルに乗り遅れまいとして秋葉に終結したわけだ。この熱気はしばらく続くでしょう。

 俺が最近注目してるのは、秋葉原ブックオフね。ブックオフですら、「まともな店が出来た」と感じてしまうのが秋葉の怖ろしいところ。これも中央改札側で、気付いたら出来ていたって感じだけど、5階だか6階だかが丸ごとブックオフだから、都内でも最大級でしょう。書籍の種類や質もなかなか充実しているし、客層が意外とオタクの方々じゃないんだよね。
 ここ最近は、毎日のように秋葉ブックオフに行って漫画を読んでるけどさ。他店に比べても、品揃えが良いし、特に、一つの漫画が全巻揃っているっていう率が高いから、立ち読みにはうってつけだよ。まんだらけみたいに、店員がコスプレをしてるとかだと、もう少し客の入りも増えるかもしれないけど、あえてそれをしないところにストイックさを感じるね。まぁ、単に変な色がついて客層が限定されるのを防ごうっていうだけかもしれないけど…。
 ちなみに、今日は『20世紀少年』をチョロっと読んで参りました。どうにも思わせぶりな謎解きの連続みたいな作りには疲れたけど、世界観がイイよ。1970年の大阪万博の時に小学生だったって、こりゃモロに新人類世代でしょう。世間じゃ昭和30年代なんかを持ち出してきて、団塊の世代に対する媚びがスゴイけど、新人類世代に向けたっていうだけでも勲章モノだと思う。諸々の小道具や用語もそうだけど、ボーリングブームとか、今になって聞くと、本当に琴線を揺さぶられるね。浦沢氏自身の経験や記憶が根底にあると見えて、当時の香りのようなものを感じられる。
 新人類世代といえば早熟の人が多くて、しかも、当時マスコミが持ち上げたからね、わりと若い時期から重要な仕事をしてる人が多いけど、やはり、今くらいが最も脂がのった状態でしょう。みんな40代、せいぜい50代になったくらいで、ちょうど社会的にも安定した地位を確立しているようだし。
 新人類といえば、オタク第一世代とも重なるわけで、「オタクとは何か」という、このご時世にもっと考えられるべきテーマにも通底する。もっとこの時代のことを注目してもいいと思うよ、世間も。
 キリスト教を眺めていて、どうも日本人に分かりづらいのは、聖母マリアの位置づけだと思う。キリスト教では、神を、そしてイエス・キリストを祀り上げているというのは周知の通り。これに関しては、最高の預言者でもあるイエスは、神と同等の存在であるということが、公会議と呼ばれるキリスト教徒の最高会議で決まったことを根拠としている。いわゆる、神とキリストと聖霊は一体であるという、三位一体説だ。
 では、イエスの母たるマリアの位置づけはどうか。厳密な正統キリスト教の流れからすれば、マリアは単なる人間であり、特別に崇拝の対象となるべき存在ではないということになる。もちろん、少なくとも人間界の現象だけ見たらイエスの母ではあるわけだし、何かしらそこに神による恣意的なものが介在しているとしたら、マリアが選ばれた必然性のようなものも推し量れるし、そもそも、イエスの生誕というものがキリスト教にとって特別重要なエピソードである以上、そこに関わるマリアという人間も、重要な人物になることは間違いない。
 実際、宗教画など、イエスについて描かれたものにおいては、どうしてもマリアをも描くことになる場合も多く、必然的に、ある種の畏敬の存在になることは、当然といえば当然であるといえよう。だが、それはあくまで「聖書の重要な登場人物」といった程度の認識だ。

 しかし、繰り返すが、厳密に言えば、マリアは崇拝の対象ではない。もちろん、正統キリスト教では、マリアを拝むなどということはない。ところが、これが多神教地域に布教されると、急にマリア信仰が増えるから不思議だ。
 ブードゥー教でも、マリア信仰があるたようだし、日本の隠れキリシタンでも、マリア信仰の傾向があったのは、よく知られている話。隠れキリシタン達が、「マリア様…」などと言っているのを、漫画やテレビなんかで観たこともあると思う。
 なぜ人々は、マリアを崇拝するのか。もちろん、これは俺達日本人の感覚からしたら、分からないことはない。当然、神(イエス)の母親なら、母親も神だと思うだろうし、むしろ母親の方が偉いと思うだろう。通常の多神教の神話なら、神の親なら神…となるものだし、神の家系図(?)を辿っていって、一番上に来る者が、最高神だという考えになると思う。特に、日本なんかは、天照大神の影響なんかもあって、最高神が女性だというのも受け入れられやすい考えなのかもしれない。
 しかし、神が世襲制だとなると、一神教の考え方とは完全に変わってしまう。神は唯一の存在であり、マリアは、体を提供しただけなのだ。厳密な意味で、人間から神が生まれることなどはありえないし、神の親だから神なのだろうという発想は、キリスト教の考えを根底から覆しかねないものだ。マリアを崇拝した時点で、本来のキリスト教の精神は失われてしまったと言っても良いだろう。
 森羅万象に神が宿ると考えている多神教の人々にとって、いきなり一神教の考えを受け入れるというのは至難の業だろうし、宣教師も妥協案として現地の人々に合わせたということはあったようだ。しかし、キリスト教を知るということは、西洋社会を知るということであり、その逆もしかり。もちろん、キリスト教を信仰する必要などは無いと思うが、キリスト教徒達の考えを理解するというのは、これからの国際化社会を生き抜く上で重要なことであるは間違いないはずだ。
 オウム真理教や9・11以降、宗教を扱った本などが数多く出版されたけど、ブードゥー教についてはまだまだ認知度は低いようだ。名前は知っていても、なんだか良く分からないもの…みたいな。特に、「ゾンビ」っていうキーワードでまとめられることが多くて、魔術みたいな、悪魔崇拝的なニュアンスを感じる人も多いと思う。
 ブードゥー教ってのは、カリブのハイチなんかで信仰されてる宗教、というか、民間信仰というかみたいなものだけど、結局のところ、キリスト教の異端だと言って良いんじゃないかな。奴隷としてアフリカから黒人達が連れてこられたけど、その黒人達がアフリカの土着の信仰とキリスト教を合わせて作り上げたものがブードゥー教なわけで、実際、キリスト教の影響が多分に認められる。
 だから、決して悪魔崇拝なんかじゃなくて、ちゃんとキリスト教と同じ神を祀ってるんだよね。そこに、原初的なアニミズムなんかが混交してるから、正統派キリスト教からしたら、どうしても怪しげな代物に見えてしまうだろうし、下手したら、キリスト教と敵対するようなものに見えてしまっても仕方がないのかもしれない。

 例えば、ゾンビなんてのも、キリスト教からしたら、とんでもないものに映るだろうね。どうやら、ゾンビってのは、本当に死者を生き返らせるものではなく(当然か…)、クスリや催眠を使って、生者を死者のように振舞わせる儀式のようなものらしいけど、死者が蘇るってのは、キリスト教にとっては大変なことだからね。つまり、それは「奇跡」っていうものの範疇に入ることだから。
 なぜイエス・キリストが最高の預言者であるばかりでなく、神と同等のものだとまで高められたかというと、突き詰めれば、死んだ後に復活したからなんだよね。死んだ後に復活するなどということは、神の力をもってしなければ出来ないことだ。これをもって、イエスは人々の信仰の対象となった…。
 ちなみに、「奇跡」とは、神の力をもって成されることだけど、本当にそれが「奇跡」なのかということは、ちゃんと教会が認定しないといけないようだ。なぜなら、人智を超えたことというのは、「奇跡」以外にも起こりうるわけで、それが本当に「奇跡」なのかということを調べるのは、非常に重要なわけだ。単なる偶然とか見間違いってのもありうるけど、ここで一番危惧されているのは、それが悪魔の力を借りて起こしたものではないか…ということなんだよね。つまり、悪魔の力を借りて起こした超常現象も、表面的には「奇跡」と同じように見える。だから、それが本当に神の力なのか、それとも悪魔と契約して引き起こしたことなのかと問うことは非常に重要で、その二つには天と地ほどの違いがあるのだ。
 そういう意味では、ブードゥー教のゾンビを神の「奇跡」だと見なせば、それはイエスと同等のことだとなってしまい、どうしても認めるわけにはいかない。となると、それは悪魔の力を借りんとする儀式だとういことになり、やはり認めるわけにはいかないのだ。
 キリスト教の理解で難しいのは、そこに数々の異端、分派があるからだよね。しかも、当初のキリスト教が、中世の時期にスコラ学者やカトリックの坊主達の理論によって肥大化していき、さらに、日本に伝来した後も、古くからの民間信仰なんかと習合して、ますます訳の分からないものになってしまった。
 しかし、キリスト教と土着の信仰が上手く融合したというのはなかなか珍しく、そういう意味ではブードゥー教はなかなか興味深い対象ではあるし、何か、この宗教戦争が激化する世にあって、処方箋となる可能性をも秘めているのかもしれない。
 中国で大地震って、こりゃ毒入り餃子やチベット騒動なんかで、中国に対して否定的な感情を持っていた俺達も、さすがに言葉が無いね…。さすがに犠牲者は可哀想すぎる。中国的には試練な気もするけど、政府としては、この地震のニュースをどう政治的に使おうかと色々考えているんじゃないかな。…とか言うと、なんか俺が性格悪い人間みたいだけど、そりゃ中国ってのは、「塞翁が馬」って言葉もあるくらいで、転んでもただでは起きない国だからさ。
 でも、地震というと、日本も心配になるね。色々と根拠の無いような説は乱立してるけど、関東大震災が1923年のはずだから、もう80年以上は経ってるわけで、そろそろ何か起きるかもしれない…という怖さは確かにある。そういう不安を煽って狡い商売する輩は気に食わないけど、不安が事前の注意や準備に繋がるなら、それも良いのか。

 最近よく口の端に上るようになった言葉で、「セキュリティ」ってのがあるけどさ。それは、防犯カメラなんかに代表されるような監視社会の文脈で使われるようだけど、天災に対してのセキュリティに関しては、問題として挙がることが少ないようだ。
 確かに、テロなどといった人災に対しては、セキュリティは色々と有効な場合が多いだろうけど、天災に対してはどういう形で行えば良いのか。
 そこで、セキュリティとはどういうものなのか考えてみたい。まず言えるのは、セキュリティの本質は予防にこそあるということ。つまり、「実際に事件があった際に、いかに犯人を捕まえるか」というのではなく、「いかに事件を未然に防ぐか」という点にあると考えられるということだ。もっと言えば、前者も後者に含まれるようなシステムであるということだけど…。例えば、入口で銃を持っていないかチェックするというのは、銃を使った犯罪を未然に防ぐ為だ。では、先ほども挙げた防犯カメラの例はどうか。防犯カメラそのもので犯罪を未然に防ぐことは難しいが、「監視されている」という意識や、「防犯カメラがあるかもしれない」という意識を植え付けることにより、犯罪を未然に防ぐことが出来るだろうとは期待できる。これは、ダミー防犯カメラがよく売れているという事実からも理解してもらえると思う。防犯カメラがあるという事実だけで、犯行のモチベーションを下げることが出来るのだ。
 これは、なかなか重要な問題を孕んでいて、よく言われる問題点としては、セキュリティをいくら強化しても、「捕まっても死刑になっても全然平気」という人間は、基本的には止めることが出来ない…というものがある。例えば、「死刑になっても良いから、子供を殺してやろう」などと思っている人間を、監視カメラやGPSなどで事前に直接的に対処することは難しい。そこが、情報系、ユビキタスコンピューティング系のセキュリティシステムの弱点で、それを克服する為には、もう少し物理的なセキュリティシステム、例えば、通学路を壁で囲うとか、防刃服を着るとかで対処するしかない。これはもう、セキュリティというよりは、もっと原始的は話だよね。
 そういう点を見ていくと、「セキュリティ系のシステムでは防げない」、「せいぜい、事前に危険の可能性を感知するくらいしか出来ない」というのは、天災と猟奇犯罪者達の共通点だ。ということは、地震に対してどのようなセキュリティが考えられるかというと、猟奇犯罪者達にするのと同様、丈夫な家を建てるとか、ヘルメットなどを用意しておく、といった、消極的アプローチしか出来ないということだ。ひどく凡庸な結論でアレだけど、地震を制御できるようになるなんていうのは、まだまだ遠い未来の話だと思うからさ。俺達に出来ることは、姉歯物件(懐かしいね)みたいなのを掴まされないようにするとかだね。
 それにしても、アメリカ大統領選挙を観る度に、あの熱狂っぷりは羨ましいと思うね。まさに、人々が娯楽の為に作り上げた制度なんじゃないかって思うほど。アメリカといえば、サッカーはあんまりアレだけど、アメフトやホッケー、ベースボール、バスケなんかが熱狂的に盛り上がっているイメージだけど、大統領選挙は、ある意味それを超える祭りじゃないかって感じだね。
 それに比べて、日本の選挙の盛り上がらないこと…。むしろ、あまり扇情的に盛り上げようとすると、マスコミに出ている「理性的」な方々が、それを抑えるような発言をする有様。それでいて、投票に行かないなんていう人がいると憤慨し、「投票に行かなくてはいけません」などと言い出すから、さすがに困ってしまう。
 中には、投票は国民の義務だというような発言をする人さえいる。国民の義務は、納税、勤労、教育だった気がするし、選挙権っていうくらいだから、権利に決まってるんだけどね…。それに、当然のことながら、選挙権を行使しない権利だって認められている。投票をしないという行為は、充分に政治的行為なのだ。もっと言えば、民主主義を認めない権利だって認められているわけだしさ。
 だいたい、投票率が100%近い選挙なんてのは独裁国家の選挙だと相場が決まっているし、選挙という制度をそこまで信頼するのも、かつてナチスが正式な選挙を通じて第一党に選ばれたという歴史を鑑みれば、危うい発想だと言わざるをえない。「民主主義とは、ある状態のことを指すのではなく、そこに至ろうという不断の努力の過程のことだ」というのを、改めて思い起こした方が良いだろうね。つまり、民主主義が大切だということを常に念頭に置いていなければ、民主制から正当な手続きを経て、貴族制や独裁制へと移行するということが、理論上、充分にありうるからだ。

 ここで、もう一度、民主主義を認めない権利について考えてみよう。民主主義とは、国民に主権を認めることで、その議決には、より多くの人の意見を取り入れる為、多数決という方法が取られるのが普通だ。現行制度下の日本の選挙でも多数決が採用されている。
 では、選挙権を行使しないとはどういうことか。選挙が面倒だというようなネガティブな意思表明の他に、主に二つ、ポジティブな意思表明が考えられる。一つは、投票したい候補者が一人もいない場合。もう一つは、民主主義というシステム自体を認めない場合だ。もしも、民主主義は認めるが、投票したい候補者はいないという場合は、投票に行く方が本当は賢明ではある。なぜなら、民主主義とは、投票によって支えられているもので、投票に行くことにより、民主主義を認めたことになるからだ。もちろん、無理して投票する必要はなく、白紙で出せば良い。
 しかし、民主主義を認めない場合はどうか。そういう人は、投票所になど行く必要はない。民主主義は、古代ギリシャの時代から、衆愚政治に陥るとして、疑問視されてきた政治システムだ。実際、アテネでは実践されていたが、それから長らく忘れられたシステムだった。それが、近代以降、自由主義が席巻するようになり、その流れから、国民に生得のものとして為政者を選ぶ権利が認められた…という経緯を辿った。日本で、納税額関係なしの普通選挙法が成立したのが1925年だから、まだ百年も経っていないシステムだ。しかも、当時の普通選挙法では婦人参政権は認められていなかったのだ。
 それだけ苦労して人類が手にした選挙権、すなわち国民主権を手放すのは惜しい気もするが、それはあくまで一つの権利であり、放棄することも自由なはずだ。今日では、民主主義の代替となるシステムもたくさん考案されている。民主主義を辞めるということも視野に入れて選挙を迎えるというのも、なかなか贅沢な試みだろう。
 アメリカの大統領選挙、まだまだ読めませんね。というか、民主党のヒラリー氏とオバマ氏の争いが未だに膠着状態で、なんだか泥沼のような様相を呈している印象だけど…。
 選挙といえば、最近は、結構俺も行くようにはしてるね。いや、単純に面白いってのもあるんだよ。自分が投票した政党や候補者が勝つかどうかを念頭に置きながら選挙速報を眺めるなんてのも、品の良いギャンブルみたいで楽しいものだ。
 しかし、じゃあ現実的に政治に何かを期待しているのかというと、別にそうでもないんだよね。世の多くの人々と同じく、誰が総理大臣になろうと、どうせ変わらないだろう…というある種の厭世観みたいなものがあってさ…。少なくとも、そこまでの期待を込めて投票するなんてのは、一部の熱狂的な方々だけでしょう。日本の政治には良くなってもらわなくちゃいけないと思いつつも、どうにもならないだろうっていう諦めが大きいからね。実際、もはやシステム自体を変えないと、誰がやっても変わらないと思う。

 そういう意味で、参考にあるのはアメリカなのかな。大統領制ってのは、確かにブレが大きいけど、その不確定性は、膠着した現状を打開する為に有効である場合もあるだろう。つまり、一人の人間が担う権力が大きく、さらに、官僚達も入れ替える為、広い意味での政治全体の空気を一新できるということだ。しばしば指摘されることだけど、日本は、官僚達が固定化されている為、現場が不透明で、官僚の権力も肥大化してしまっている。官僚の権力の肥大化が汚職を生むというのは、中国の科挙の歴史が教える通り。日本の様々なデタラメさの元凶を官僚に見出す意見は多い。
 では大統領制はどうなのかというと、日本でもそれに近いシステムとして、知事という存在が思い起こさせられる。住民の直接投票で選ばれ、その権力も大きいし、実際、知事が変わることにより、その県の体制自体が大きく変わるということもあるようだ。東京都や、宮崎県、かつての長野県のように、影響力のリーダーが現われて、県民を善導するような構図が見えると、日本も大統領にして、強いリーダーに牽引してもらった方が良いのではないかと思う。
 もちろん、アメリカのブッシュ政権なんかを見れば、強いリーダーがガンガン引っ張っていって、酷い目に遭う…というのもあるってことも分かるし、ダメなリーダーを担いでしまったら、目も当てられない状態になるとは思う。むしろ、一人の人間に大権を持たせることの危うさから、議会制民主主義が生まれたとも言えるし、現行のシステムくらいが日本人には良いのかもしれないという声も多いことだろう。ただ、大きく失敗することもないが、大きく成功することもないという、消極的なこのシステムにより、微妙な増減を繰り返しながら緩慢に死に至っているように見えてしょうがない。
 ここらで、日本の政治システムも見直してみても良いのかもしれないね。特に財政的に、これだけの惨状に陥っている日本のこと、よほどの荒療治でもしない限り、健全な状態になることはありえないでしょう。もちろん、凶悪事件やら自殺やらの多さも心配だし、何か根本的な所が瓦解しつつあるような閉塞感は誰しもが感じていることだろう。
 そこで俺は提唱する。日本も大統領制を取り入れるべきではないか。いや、むしろ独裁者くらいがちょうど良いのかもしれない。日本の諸勢力と既得権益の関わりのない、海外で実績のある優秀なCEO(最高経営責任者)辺りを連れてきて、全権委任して経営を立て直してもらうくらいのことが出来ないだろうか。その人が失敗したら、日本も一緒に沈没するくらいの覚悟でね。でも、それくらいの権力と責任を押し付けないと、今のような、誰も責任を取らないシステムでは、ジリジリと沈むだけな気がするよ。
 しかし、人生に行き詰まってくると秘密結社に憧れるから困ったものだね。上手くいっている時は、秘密結社なんて弱者が集うところだ…なんて息巻いてたのに、行き詰まると、互助的で陶酔的な秘密結社に入ることにより、色々助けてもらったり、優越感に浸ったりできるのではないかと夢想してしまう。
 このブログでも、俺が憧れる秘密結社の理想のものとして、『エヴァンゲリオン』のゼーレや、『定吉七番』の大阪商工会議所を挙げたけど、どちらもフィクションのものとはいえ、改めて、魅力的なものであるのは間違いないと思うよ。
 いや、フィクションの作品には、秘密結社的なものが非常に多くて出てはくるよね。だいたい、敵役の方々ってのは、悪の組織に属しているもので、例えばショッカーだって秘密結社だと言って良いと思う。でも俺は、そういった露骨に悪の組織ではなく、選ばれた者達のサークル的なエリート志向の組織や、正義と信じる活動を展開するレジスタンス的組織としての秘密結社に惹かれるわけ。前者と後者の代表例(?)として、ゼーレと大阪商工会議所があるってのは、すでに述べた通り。
 フィクションの世界だと、もう少し本格的なやつでは、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に出てくる、塔の結社とかになるのかな。いや、自分が読んでない本を挙げるなんて恥ずかしい限りだけど、いつか俺も小説を読むようにするから許してください…って、謝ることもないか。ただ、一般的に、この塔の結社ってのは、フリーメーソンをモデルとしていると言われているようでね。ゲーテ自身も熱心なメーソンだったわけで、なかなか興味深い。この中世石工ギルドを起源とする秘密結社が、どれだけ大きな影響力を持っていたかというと、不用意に陰謀史観的な方向に進むとは危険としても、知的コミュニティとしての存在感は大きかったと言わざるを得ないようだ。

 元々、石工ギルドってのは、城や寺院を建設する職人達が集うもので、他のギルドに比べても自尊心が強く、厳しいものだったようだけど、だんだんギルドとしての力が無くなってくると、外部から有力者を入れるようになったみたいなんだよね。それにより、実際の石工職人である実践的メーソンと、名誉職的な思弁的メーソンとが入り乱れるようになり、だんだん後者の方が支配的になっていったんだ。
 近世には、もうエリート志向の知的サークル的な存在になっていたようだね。1600年くらいに発足したと目される秘密結社薔薇十字団の人達がフリーメーソンに流入してきて、儀式などが神秘化したという話もある。薔薇十字団の方は、もっと素性の知れない魔術的な団体だったようで、医者にして大魔道師でもあらせられるパラケルスス師匠が思想的起源だとされていて、エヴァのオープニングに出てくるセフィロトの樹でもお馴染みのロバート・フラッド先生も団員だったという素晴らしい秘密結社だ。
 まぁ、フリーメーソンは、今でも特に隠れることもなく普通に活動していて、秘密などというのも変な気がするけどね。それに、上流階級の方々なんかが集まりたがるのは古今東西に見られる現象だし、世の中が特定の人々により動かされているというのも、ある程度は当然のことでしょう。それが嫌だったら、自らも上流に上がるしかないよね。いやぁ、俺も秘密結社を作りたいですな。我が結社の掲げるキャッチコピーは、もう決まっているよ。タモリ倶楽部のオープニングに表示される『 for the sophisticated people 』っての。まさに俺の目指すところに合致しているよ。
 形而上学の根本問題として、「なぜ存在者があるのか」というものがある。むしろ、何も無い方が自然なのではないか。なぜ、なにものかが存在しているのだろうか。存在しているからには理由があるはずだ。それは必然的理由なのか。あるいは、偶然の産物なのか。人類の抱える全ての疑問は、ここに集約されているといっても良い。
 この問題は、哲学の歴史と共に決着するといったことはなく、むしろ細分化され、先鋭化されていった。無論、哲学というものが、問題の解決ではなく、問題を生み出す営みのことと割り切れば、これも詮無きことではある。ドゥルーズの言葉を借りれば、「哲学とは概念の創造」であるということになるのか。
 では、一体どのような変遷を辿り、細分化されていったか。最初は、「この世界」がなぜ存在するのかということが問題になったということになっている。なぜ、この世界はあるのか。どうやって作られたのか。しかし、これについては神話などに頼るしかなく、曖昧な議論のまま、宗教に回収されてしまったようだ。
 むしろ、古代ギリシャなんかでは、「この世界は何から出来ているのか」という切り口から、世界の存在理由を見出そうという試みが行われた。これを「水からである」と説いたのがタレスで、ここから自然哲学が生まれたというのは有名な話。他にも、ヘラクレイトス辺りは、存在があるのではなく、生成があるのだという概念を生み出し、新しい境地を切り開いたりした。
 そこからプラトンの時代になると、超越的な形而上学的世界が投影されたものが、この世界である…といったような形で、人間の感知できない領域が設定され、なぜこの世界が存在するのかといった質問に対しては、この世界は仮象のものだといった回答が与えられるようになる。もちろん、それは存在理由として納得のいくものではないが、真なるイデアの世界のことを知るのは人間には不可能なこととして、問題自体が切り離されていったのだった。
 そして、時代はキリスト教全盛となり、イデアの概念は、神の国といったような彼岸の概念に置き換えられ、ますます、世界の存在理由を問うことは難しくなった。なぜなら、全ては神の御心の結果であり、それを推し量ろうという料簡すらが不逞なものとされたからだ。結果、この時代は哲学にとって暗黒時代となる。全てを神に帰着させることにより、人間の自由な思考が停止させられた状態となってしまった。

 中世が終わったのは、ルネサンスという運動が原因であることは周知の事実だが、ルネサンスとは「人間の発見」のことだったと言っても良いと思う。それまで、神の似姿としか捉えられていなかった人間が、独立した存在として再確認される。そこからの勢いは目覚しく、技術の発達や数学などの理論の発展より、世界を神無しで記述することが出来るようになり、創造説の地盤も崩れ落ちていく。
 中でも、決定的な発言をした男がいた。そう、ルネ・デカルトである。「我思う、ゆえに我あり」…そう、ここには神など出てこない。世界に何が存在するのかは分からないが、今、こうして思考している私は確実に存在している…と。ついに、ここにおいて、人類は神の手をを借りずに、自らの存在を確認するに至った。デカルト自身は神の存在を信じていたろうが、この思考が表す意味は大きい。世界の存在についての疑問ではない。人間の、そして、私の存在に関する問題だ。
 かつて、エデンを追われた人類は、なんとかして神に気に入られようと、中世の間、必死になって神の住む城を堅牢にせんとする作業に追われた。しかし、デカルトが再び食してしまったのだ、人類の知恵により、神無しで生きるという道、すなわち、あの知恵の実を。
 と、筆が乗ってきたところで、紙面の都合で今回はここまで…。
 ヒマつぶしに散歩をしようと思って日比谷公園まで行ったら、警察はいるわ、抗議団体は集まっているわで、凄い喧騒でね。とてもじゃないけど、近づけないって感じ。何ごとかと思って見て回ったら、どうやら、ちょうど園内のレストラン『松本楼』に胡錦濤国家主席が来ていたみたいなんだよね。いやぁ、偶然とはいえ、そういう歴史的瞬間に日比谷公園に行くなんて、俺はやっぱり凄いよ。
 日比谷公園は、俺の散歩コースの中でも特に頻度の高い場所ではあるんだけどさ。でも、しょっちゅう抗議運動やらデモ演説やらを行っていて、こっちまで気持ちが昂る。いや、本当は右につけ左につけ、俺自身は政治運動をやろうとは思わないし、感心しない面もあるんだよ。でも、そういう運動が起こるということ自体は健全なことだと思うし、そういう人がいないと困るというのもあるね。
 もちろん、あぁいった運動自体というか、手法自体が本当に効果的かというと、疑問もあるよ。中国に怒りなんかを持っていた一般庶民が、運動家の過激な言動を見て、逆に萎えてしまったというケースもよくあると聞くしさ。本当は、何かあった時は庶民が立ち上がるのが一番だと思うけど、そういう気概は70年代初頭くらいまでで消えてしまい、今や、政治運動というのは、一部の運動家の方々のみが行うものとなってしまった…という感はある。

 日比谷公園…。思えば、開園が1903年のはずだから、二年後には日比谷焼き討ち事件があったわけで、その当初から政治的な運動とは切り離せない場所だったんだよね。日比谷焼き討ち事件なんて、まさに庶民が立ち上がったものでしょう。松本楼だって、ニュース見た感じでは、歴史的な場所であることは間違いないようで…。そもそも、71年には放火されて全焼しているわけだしね。まさに渦中の場所って感じだ。
 俺としても、あの佇まいには、常日頃から尋常ならざる物を感じていて、いつかココで飯を食いたいなぁ…なんて思いながら歩いていたわけでさ。かつては、かの「中国革命の父:孫文」が亡命中に食事をしたとかもあったようだし、松本楼に注目していたのは、我ながら慧眼だったと思うよ。いや、別に俺が凄いことは何もないんだけど…。
 いずれにしても、今回の胡錦濤訪日の件で、また松本楼に一つ逸話が生まれたのは間違いないね。胡錦濤氏に対して色々思うところはあるけど、相手を知るためにも、いつか松本楼で飯を食わねばって、改めて思ったよ。そりゃ、少々お値段は高いとはいえ、食べられないほどのこともないし、行こうと思えば行けなくもないけど、やはり一つのイベントとして十全なる体勢をとって臨みたいね。人生の節目の時にでも行くとするかな。
 東京には、幾つか重要ポイントがあると思うけど、日比谷公園なんていうのは、かなりランクが高い方でしょ。近代史が刻み込まれているって感じだ。こういう場所を散歩するなんていうのは、なかなかに贅沢な試みだと思うけど、どうでしょう。本当は、都内の重要スポット巡りみたいなことをブログでやりたいというのもあるんだけどね。近頃、秋葉と日比谷公園辺りしか散歩してないからなぁ…。もっと精力的に活動しなきゃいかんかな。
 マイクロソフトが、ヤフー買収を断念とは…。なんか、買収しちゃうかもっていう感じもあったけど、数日前から本格的に雲行きが怪しくなってきて、ついに断念ですか。でも、合併によって巨大企業が出来るというの自体は、消費者にとっては危惧すべき状況ではあると思う。ほら、巨大企業が出来ると、市場を独占してしまう恐れがあるからね。
 ただ、今回の場合は、ネット業界の巨人グーグルに対抗する為っていうのがあるからさ。日本にいるとよく分からないけど、少なくとも世界的に見たら、グーグルのネット業界における力はもはや決定的で、このままにしておいたら、ネット業界は全てグーグルによって牛耳られてしまうかもしれないという声すらある。そういう意味では、二大政党制じゃないけど、むしろ独占を防ぐ為、グーグルに対抗する企業としてのマイクロソフトには頑張ってもらいたい気持ちもあるね。
 いやぁ、数年前までは、この業界でのマイクロソフトの影響力は抜群だったからね。むしろ、グーグルがここまで脅威になったことが凄いくらいでさ。それが今では、ことネット業界だけに絞ったら、グーグルの方が全然上になってしまったでしょう。しかも、最近は無料で色々なソフトを提供しつつあるし、マイクロソフトが提供するソフトと直接的に競合していきそうな流れさえある。

 それに比べて、ネット業界でのマイクロソフトの後手後手っぷりは、見てられなかったね。これは、まさに巨人の驕りじゃないかって気がしたけど、元々は、ブラウザでネットスケープナビゲータに遅れをとり、今では検索エンジンでグーグルに対して遅れをとった形なわけでしょ。
 そもそも、ネット産業、特に、ネットを使った広告代理店的な事業が、これほど大きなものになるとは思っていなかったと推測されるね。それは、マイクロソフトだけの問題じゃなくて、グーグルが創立したのは98年だったはずだけど、グーグルだって、最初の数年間は特別大きな成功をしたわけじゃない。『キーワード広告』のシステムを発案した、ビル・グロスの広告モデルが画期的だったわけだ。
 まぁ、今ではもっと進んで、グーグルがやろうとしていることは、この世界の情報を出来る限り多く集めて検索可能にし、ネットの世界を支配しようということでしょう。ちょっと扇情的な言い方かもしれないけど、ネット世界の神となるって辺りがグーグルの窮極の目標ではないか。現在でも、「ネットの世界に存在するということは、グーグルの承認を受けるということだ」っていうくらいにまでなりつつあるし、まさに神への道も射程に入っていると言えるかもしれない。
 ただ、グーグルの思惑とは違い、俺達ユーザーは、神を必要とするのかというと、そうでもないでしょう。全てを網羅する神が現われたら、総合的なサービスを受けられるようにはなるかもしれないけど、市場は独占され、神の都合により少数意見や反対者が潰されるという危険性すら出てくる。やはり、目指すところは多神教的世界観だね。
 ただ、それを阻止せんとするのがマイクロソフトでは、やっぱり市場の硬直化を感じざるをえない。昔と変わってないなぁって感じ。You Tubeのように、新興勢力が旧来の体制を脅かすってのが、この業界の面白いところだからさ。新しいベンチャーが、グーグルの牙城を脅かしてほしいものですな。
 硫化水素(H2S)での自殺が流行ってますね。やっぱり、自殺にも流行り廃りがあるってことか。まぁ、日本という国は、年間3万人ほどが自殺しているっていう怖ろしい国だから、どんな形で自殺しようかっていうのも、それなりに影響力のある話題なんでしょう。
 それにしても、年間3万人ってのは、凄い数字ですね。一日80人くらい死んでるんだから。もっと言えば、20分に1人くらい死んでることになるのかな。貧困で亡くなる発展途上国の子供とは違った意味での救いがたさがあるね。ホント、進化の隘路って印象さえ受ける。
 かつて、名作『21エモン』で、銀河で二番目に文明の発達した星の話があってさ、その星では、生きる気力を無くした人達は、0次元と呼ばれる場所に自主的に行き、きれいさっぱり消えて無くなるというんだ。完璧にオートメーション化された世界で、人々の生きる熱意は失われてるのに、医療などは極限まで発達しているから、普通に人が死ぬことなどない。で、死にたい人々を合理的に処理する為に、0次元という装置が作られたということだけど…こういう藤子先生流の問題提起も、そろそろ現実的な意味合いを持ち始めている気がする。ちなみに、では銀河で一番文明が発達している星では、どんな状態になっているのだろうかというと、「人々は原始的な生活に帰っていた」というオチなんだけどさ。

 医療や化学、医学生理学関係が発達したお蔭で、SF的な生命倫理の問題が現実のものとなりつつある。脳死や臓器移植、人工授精、クローン…などなど。しかし、死ぬ権利を認めるかどうかというのは、古典的でありながら、最重要命題の一つであると言えるだろう。
 現時点では、宗教的倫理や、社会道徳の次元から「親(神)から授かった体を殺めるなど、とんでもない」といった議論に終始し、なかなか合理的な説得力を持たせるには至っていない気がする。それは、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問にも通じることだけど、良い、悪いという次元では、どうしても漠然とした話になってしまうだろう。
 そこで、近代法学では、良い、悪いという議論を一旦棚上げして、もしも人を殺したら、こういう罰を与えます…といった【If Then構文】に置き換えることにより、ひとまずの合理的決着を与えることに成功した。しかし、自殺の問題では、自分を殺害した本人自身がすでにいない為、法的罰則を与えることが出来ない。ゆえに、法律の適用外の話となってしまう。
 ここで、ローレンスレッシグの議論を参照して、法、規範、市場、アーキテクチャのより、自殺を抑止する方法を検討してみよう。まず、法による規制は難しいことが分かった。かといって、規範では従来の通りだ。では、市場はどうか。市場が活性化することにより、経済的理由で自殺する人は減らせるだろうけど、経済的理由でない自殺には無効だろう。そうなると、アーキテクチャだ。硫化水素を作る為の薬品を購入できないようにしたり、線路に柵を作ったり、ビルの屋上に登れないようにしたり、それなりに効果的で現実的な方法がすぐに幾つも挙げられそうだけど、死ぬ奴は何やってでも死ぬんじゃないかっていう危惧も払拭できないね。
 こうなったら、自殺した人は地獄に落ちるとか、とにかく自殺を徹底的に悪いものと考える宗教を日本に広めるか、あるいは、自殺した人間の家族は多額の賠償金を払うという法律を整備するとかしかないのかな。どちらも現実的じゃないけど…。
 あるいは、もう自殺する人が出るのはしょうがないとして、出来るだけ周囲に迷惑かけないよう、何の苦しみも無く消えることが出来るアーキテクチャを国が整備するとかね。そりゃ、まさに0次元だけど。
 『崖の上のポニョ』ってどうなんですかね。盛り上がってるのかな。今夏公開のわりには、あまり話題になっていないような気もするけど、どうなんでしょう…。
 いや、話題性はあると思うんだよ。日本で最も影響力のある映画監督の一人である宮崎駿監督の最新作品なわけだしさ。前作の『ハウルの動く城』だって、興行的にも成功を収めたし、作品としてのクオリティもそれなりに高かったわけで、駿健在っていう存在感を見せ付けたと思う。
 今回の場合、あまり宣伝してないってのが挙げられるのかな。いや、俺もあまりテレビを観ないからアレだけど、そんなにバンバンCMをやっているって感じじゃないよね。映画館のポスターを見て、もう公開なのかと気付いたくらいだもん。
 ただ、宣伝をあまりしないって意味では、『ハウル』もそうだったんだよね。でも、あの時は宣伝が無いことが妄想をかきたてて、水面下でグツグツと音を立てているような感覚を味わった気がする。それに比べると、今回はあまり期待さえされていないんじゃないかっていう印象を抱くね。
 ていうか、もう少し率直に言っちゃうと、あまりにも地味でしょう。映画紹介のような記事を読んでも、ややファンタジーの香りはしつつも、童話の延長線上みたいな、いわゆる「子供向け作品」って感じなんだよね。実際、宮崎監督自身も子供向けってことで作ってるみたいだし、ポニョの歌が公開されたけど、それも明らかに子供向けな感じだった。
 それに、今回は、CG作画ではなく、手書きでやるとかいう話だしね。そういう路線も、正直言って、特に福音って感じじゃないよ。みんなCGの絵が見たいと思うし、「手書きの味」なんてのに魅力を感じる人もあまりいないと思うね。なんというか、今の延長線上に素晴らしい作品を作る自信が無くなったから、逃げてしまったと捉えられても仕方ないんじゃないかな。
 第一、子供向け作品なんて言う時点で、もうダメだなって気がする。過去、何人の素晴らしいクリエーター達が、晩年、子供向け作品を作るだとか逃げ口上を並べて、僕らを落胆させていったことか…。かの藤子・F・不二雄先生だってそうだったからね。
 宮崎監督も、世間の持つ自分のイメージに合わせようと必死なんじゃないかって感じる時があるよ。子供の夢を紡ぎだす人…みたいなさ。でも、実際、そんなんじゃないでしょう、あの人は。俺達からしたら、この人は完全な変態だし、基本的にはオタクのカリスマだったはずだ。ロボットと美少女を書かせたら、本当に嬉しそうな顔をする人なんだよ。かつて、かつて、宮崎勤という青年がいて、彼の部屋には膨大な数のビデオが無造作に積まれていたんだけど、その中に、唯一ちゃんと付箋が貼ってあったビデオがあったんだ。その付箋には、「宮崎さん」と書かれていた…という話があった気がするけど、その位置が本来の宮崎駿の位置でしょう。誰も友達がいない屈折した青年が、大切にしていたビデオ…それこそが宮崎駿の作品なんだよ。
 『崖の上のポニョ』、もちろんまだ観ていないし、良い作品かもしれないけど、俺達の求めるものは、やっぱりファンタジーでロボットで美少女だよね。そういう王道を、なかなか揃えてこないでしょう、最近。もっと、マニアが感涙するような作品を作りあげてほしいと願うとこだね。
 この世界に「外部」が存在するのかというのは、有史以来、特に西洋思想史において最重要命題であったといえよう。ギリシャ哲学において、超越世界ともいうべきイデアという概念が提唱され、キリスト教が普及されてからは、まさに神がイデアでありロゴスであるといった解釈がなされ、この世界の外部が明言された。つまり、神こそがこの世界の外部に存在するものであり、外部そのものであるというわけ。
 近代哲学は、神なしでいかに世界を記述するかという目論見だったといえるけど、基本的には、哲学者は大体みんなキリスト教徒だったわけで、神の存在は前提として念頭に置きつつ、いかに神の力を借りずに、人間の理性だけで世界を認識できるかという努力の軌跡であったとも言えるだろう。
 もちろん、中世スコラ学とは別の切り口で、神自身についても言及されることはあった。キリスト教においては、神が世界のシステムを構築した存在なわけで、自然法則も何もかも神が創ったということになっている。しかし、神でさえ自然の法則には逆らえないのではないか…とか、自然の法則こそが神なのではないか…というような「暴論」すらも飛び出して、むしろ、そういった思想的系譜のが、現在では正統なものになっている。特に科学の発達により、神なしに、数学などを駆使して論理的に世界を記述するという作業が、かなりの成功を収めたからね。

 そんな、旧来からの問題設定、「世界というシステムの外部に何かがあるのか」というものが、上手く使われたのが、映画『マトリックス』だったでしょう。ややネタバレになってしまうけど、『マトリックス』では、俺達が認識するこの世界は、邪悪なる機械によって脳内に投影された夢のようなものである…という設定なわけだ。それは、つまりこの世界の外側には真の世界があり、この夢から覚醒することにより、真の世界に行くことが出来るということになる。これは、キリスト教的救済というよりは、解脱することにより、この輪廻のシステムの外側に出ることが出来るという仏教の世界観に近いかもしれない。キリスト教的世界観で言えば、これは神の視座だよね。システムの外にあるのは神なのだから。実際、真の世界に目覚めることが出来た『マトリックス』の主人公は、キリストになぞらえられている。
 ただ、この映画自体がキリスト教的映画だったかといえば、そうでもなくて、むしろ、脳内世界は、この世界が邪悪なる神によって創られたというグノーシス的な雰囲気も感じさせるし、この世界が、神ではなく、機械によって作られた夢であるという発想は、世界に神はいないのだという無神論的決着にも見える。実際に、夢から覚めれば「現実」世界も存在するわけだけど、その「現実」世界さえも、実はシステムの内部なのではないかという無限言及が示唆され、結局のところ、システムは無限に連鎖しつつも、閉じたものであって外部などは存在しないということを思わせる。
 そう、この映画は、意味ありげなレトリックとしてキリスト教やらユダヤ教、その他の用語が頻出して、宗教色が強い作品のような印象を与えるけど、トータルとしては、神という概念の無意味性のようなものを表しているのではないかと思う。その意味では、この映画のテーマ曲に、反キリストを標榜するマリリン・マンソンが使われたのは、象徴的なことであったと言っても良いだろう。
 『徹子の部屋』に岡田斗司夫が出てましたね。なんだか時の人って感じだけど、こんなサブカルな人が明るい時間に地上波なんか出てイイものなのか…。まぁ、東大でも講師やってたし、ダイエットの著作が随分と売れたようで、それなりにメジャーな人になりつつあるのかな。それでも、まだ知らない人の方が大多数を占めているんだろうけど。
 俺なんかも、彼の活動を微妙な立ち位置で見てはきたけどね。オタキングなんて言ってさ、オタクの社会的地位の回復みたいな運動をやってた頃から、どうにも素直に応援しづらいところがあってね。
 「オタクの代表」的なポジションが、まず疑問でさ。オタクって、代表だとか言えるような代物じゃないだろう…みたいな。まさに、多様化こそがオタクという現象の本質であって、最大公約数的に代表を名乗るのはどうかと思ったってことでね。それに、オタクの復権っていうスローガン自体が、余計なことするなよって感じだった。そりゃ単なる自己弁護だろう…というね。
 確かに、それまでのオタクのパブリックイメージが、宮崎勤や宅八郎だからさ、俺達としても、なんとかしなきゃっていう危機感はあったけど、それに代わって出てきたのが岡田斗司夫じゃ、見た目からして、全然フォローになってないよ。ていうか、そりゃちょっと言い過ぎたかな。岡田センセイ、ごめんなさい…。

 でも、実際問題、岡田氏がいくら奔走しても、それでオタクの復権になったとは到底思えないね。岡田氏といえば、オタク文化が海外で大ブレイクなんていう与太を流したことも有名だけど、そんな話も、あまり真に受けている人もいないと思うし、海外にもオタクがいるんだね…って程度で終わりな話だからさ。
 それに比べたら、芸能人達が、「私もアニメが好きなんです」とかカミングアウトした方が、どれだけオタクの復権になっているか…。そう、ショコタンをこそ褒め称えるべきだよ。結論としては、ショコタンこそがオタクの神だってこと。
 いや、岡田氏が、というか、彼が社長を務めたガイナックスという会社が、どれだけ日本のサブカル界に貢献したかということは、俺が改めて述べる必要もない。でも、岡田氏のオタキングとしての活躍は、正直言って、オタク業界という閉鎖された世界の、それもごく一部でのものだったという印象。その証拠に、俺の知り合いのオタク達に聞いても、岡田斗司夫の名前すら知らない人も結構いるもんね。俺みたいに、氏の著作をそれなりに目を通している人なんて、本当に少数じゃないのかな。
 氏を貶めるわけじゃないけど、正直言って、いわゆる、現在のオタク文化を担っている人でもないわけだし、メイドやら、萌えやら、最新のアニメやらを、そこまで詳しいわけでもないでしょう。あくまで、昔のオタク業界の最前線にいたっていう過去の遺産と、業界のコネクションやネームバリューで勝負してる人だよね。
 もちろん、それ自体は悪いことではないし、多様化した島宇宙のような現在のオタク文化を俯瞰する為には、ホンモノのオタクではなく、彼のように客観的な目を持った人が必要だとは思うけどね。あまりそこから手を広げずに、過去のオタク文化の薀蓄を垂れていれば良いと思うよ。それだけでも、充分に素晴らしい財産を持っているんだからさ、黙ってオタク本でも書いていてくれれば、俺は普通に読ませてもらうよ。
 特に、ある時期から急に、「オタク」という接頭語の付かない、一般的な評論家を気取って、知識人みたいな発言をすることが増えて、そういうのは本当に冷めるね。無理の無い範囲内で頑張ってほしいものですな。
 サッカー欧州チャンピオンズリーグ、バルセロナの敗退は決定的でしたね。何というか、一つの時代が終わったという感慨を抱かずにはいられない。いや、俺なんか、まさにロナウジーニョのプレイが観たいが為に海外リーグに注目していたクチだからさ。2004年かな、ロナウジーニョがパリサンジェルマンからバルセロナに移籍してから、なるべく彼の出る試合はチェックしようと思っていた。
 ホント、俺なんかベタだから、ロナウジーニョに注目したのも、2002年の日韓共催ワールドカップからなんだよね。ほら、あの時に3Rっていって、ブラジルのロナウド、リバウド、ロナウジーニョの三人が注目されたでしょ。それで、俺的には、特にロナウジーニョのパフォーマンスに感動して、それから注目したってわけなんだけど…。なんか、ごく一般的なロナウジーニョファンの軌跡って感じでアレだけどね。
 で、バルセロナ移籍後のロナウジーニョの活躍は、まさに破竹の如しで、日本の地上波でも随分と流れたから、俺が何か言うまでもないとは思う。チャンピオンズリーグやクラシコ(レアルマドリードVSバルセロナ)でも、伝説的なプレーを幾つも残しているし、世界最高という称号がしっくりきたね。
 それが、去年くらいからかなぁ…。怪我が原因みたいだけど、パフォーマンスが落ちてきてね。一気にマスコミの注目も無くなって、俺自身も熱が冷めてしまった感じでさ。寂しい話だけど…。そして今回の試合で、ロナウジーニョの時代、バルセロナの時代は終わったのかと痛感させられたってわけ。しかも、相手はマンチェスターユナイテッドで、今、一番旬な男、C.ロナウドを擁しているからさ、なおさら象徴的だった。
 俺も、今ならC.ロナウドのプレーの方が観たいもんね。日本でもだいぶブレイクしてるんじゃないのかな。CMにも出てたしね。

 まぁ、一時代を築いた人間が落ちぶれるとか、引退するとか、そういう話は何も珍しいことではないし、常に起こっている現象だと言ってもイイわけだけど、ロナウジーニョには、こういうフェイドアウトの仕方はしてほしくないね。移籍の話もあるし、まだ頑張れるとは思うんだけど、何か一花咲かせてほしいというかさ。
 そういう意味で、ジダンは素晴らしかったね。世界最高と謳われて、98年のフランスワールドカップで自国を優勝に導いて、ほとんど英雄的な扱いだったのに、2002年の日韓共催ではボロボロでさ、もうジダンの時代は終わったって、散々叩かれたわけだ。それが、2006年のドイツ大会で自国を決勝戦まで牽引して、全世界が、再びジダンの時代が来たのかと、震撼しながら見つめていた中で、頭突きして退場だからさ。しかも、試合も残り時間は10分くらいだったもん。あの時は、俺もテレビで観てたけど、衝撃を受けたね。結局、決勝ではイタリアに負けてしまったわけだけど、翌日の話題はジダン一色だったよね。しばらくの間は、あの頭突きがブームになったくらいじゃないかな。
 ロナウジーニョ、今頃、たぶん荒れてると思うんだ。やけ酒を飲んでるかもしれない。でも、まだ年齢的にもいけると思うし、このまま哀しい消え方だけはしてほしくない。ジダンのように、あるいは、マラドーナのように、人々を愕然とさせるような珍事を起こしてほしいものですね。