批評学園

日常・非日常を批評するブログ。

 いつからか、「自由」というものが、人間にとって一番の価値になってしまった。西洋的な考えからすると、神に背いて禁断の実を食べた時点で、人間は規制や服従を拒み、己の意志で行動することを選んだとも言える。そして、人が人を支配し、国家が人を支配するという歴史を経て、人間達は改めて自由の素晴らしさを痛感し、自由を金科玉条のものとし、そこから近代主義の全ての考えが生まれた。人権も平和も各種権利も、全ては、自由の為。「人間が人間らしく生きることとは、自由に生きることだ」というような考えが根付くようになった。
 だが、特にこういった考えが日本に広まったのは、戦後のことだと思う。通例的なことを言えば、日本で本当に自由主義、近代主義が勃興したのは、敗戦によってアメリカニズムが市井のレベルでも根付き、マスコミなどを介して広がったからだということになる。

 ここで考えてみたいのは、「自由」とは、そこまで素晴らしいものなのかということだ。「民主主義の手続きにより、民主主義以外の政治体制を選択できる」という、民主主義のジレンマと同様、自由という概念にも、「束縛されることの自由」や、「支配されることの自由」を選択できるというジレンマがある。あえて「ジレンマ」という言葉を使ったのは、それがあまり良くないこととして認識されているからなのだが、冷静に考えてみると、そういいった「不自由を選択する自由」が保証されることこそ、自由を考える上で最も重要なことではないかと思われる。
 自由というのは非常に強い概念なので、それを至高のものとすると、際限無く人々に負担を強いることにもなりかねない。つまり、自由とは、言い換えれば、「選択肢の数が多い」ということで、その大量の選択肢の中から、一つを選ばなくてはいけないというプレッシャーを与え、さらには、その選択肢を選んだことを自分の中で納得しなければいけないという精神的負担をも強いることになるからだ。
 言い換えれば、「過度の自由が不自由を生む」とも言い換えられる。具体的に考えてみよう。親の家業を継ぎ、お見合い相手と結婚し、一生地元を離れず暮らす…こういった生活が当たり前だった頃と、どんな職業を選んでも良く、どんな相手と結婚しても良く、どこへ行っても良いと言われている現在、どちらが精神的に負担が少ないかというと、ちょっと考えさせられるものがあるのではないだろうか。
 何を選んでも良いと言われているが故に、無理に選ばなくてはいけない…これは少々逆説的だろう。今では、親の家業を継ぐなどと言うと、憐れむような顔で見られる有様だ。「自分の職業も自分で選べないなんて、可哀想に…」といった感じでね。
 もちろん、それでも自由が良いと考えている人は多いだろうし、確かに自由は保証されていなければならないとは思う。しかし、自由によって圧迫されている人が多いのも事実だ。もう少し補助線を引いてみよう。自由とは、あくまでも挑戦する自由のことで、実際に手に入れたり、達成することを保証するものではない…こういう冷たい現実があるから、自由についての問題が生まれるわけだ。
 自由を標榜する社会では、そこに生きる人全ての自由が保証されている。すなわち、みんなが自分の欲望を追う自由があるわけで、もちろん全員がそれを叶えることは出来ない。競争に勝った者、能力のある者のみだ。みんなが自由に夢を持ち、競争することが出来るが、手に入れられるのは一握りの人物だけ。はたして、それが本当に幸せなことなのかといえば、もっと議論があって良いと思う。
 この社会の設計者達から、「君達は自由なんだよ」と言われ、大喜びで踊りまわるも、大多数の人間は競争に負け、挫折を味わう。それが現代の社会ではないか。親や社会など気にせず、本当に好きな人と結婚して良い、などと言われて喜んだのに、結局誰とも結婚できないなどという人間の、なんと多いことか。それならば、親の強引なお見合いで結婚する社会の方が幸せかもしれない。
 自由などという根拠の曖昧なエサに釣られている場合ではない。声をあげるべきだ、「私に幸福な不自由をくれ」と。
 世の中、規制緩和だ、自由化だ、格差だって、競争を煽るような風潮になっていますね。ちょっと前までは、みんな平等の平板化が良いみたいな感じだったのに、最近では、優勝劣敗的なことを言うのがカッコイイみたいになってる気もする。いや、もちろん、格差社会は問題だっていうのは、コメンテーター達はみんな言ってるけどさ…。
 でも、草の根的に市井の声を聞いたらどうかねぇ…。みんな、「能力のある人や、頑張ってる人が成功するのは良いと思う」とか言うんじゃないかな。それは資本主義の基本であり、みんな平等を目指す社会主義は上手くいかない…っていうのが、一つの社会の常識みたいになってるし、なんというか、「みんな平等にしろ」なんて言うと、まるで負け犬の遠吠えみたいに聞こえるんじゃないかというプライドもあると思う。「能力のある人は、収入も多くて当然だよネ」なんて、ちょっとカッコイイ言葉だからね。言ってみたいと思うよ。
 もちろん、生まれつき障害を持っているだとか、環境的に不平等な人は、救わなくてはならないというのも前提にはある。自由競争を認め、そこに勝ち負けみたいなのが生まれるのは仕方ないにしても、それはあくまで「フェアな」戦いの後に生じるものであって、スタートラインはみんな同じでなくてはいけないし、途中のコースも出来るだけ同じである必要があるということだ。
 これ自体は、現代リベラリズムの根幹を成す考えで、「この社会に生きる、誰と立場を交換されても平気か」という形でまとめられる。つまり、当人はもちろん、第三者の目から見ても、生まれつき不幸になるしかないような環境や社会的立場にいるような人には、誰だってなりたくない。だから、そういった人間を生まないような社会を作ろう…という考えにつながるわけだ。有名な、ロールズの『正義論』で顕在化された問題設定だ。
 もう一度繰り返して、確認してみようか。本人が楽しんで貧乏してたり、進んで苦行を味わったりしてるのなら良いが、本人もツラくて、客観的に見ても絶望的な人生を送っている人間…、しかも、それは本人の努力などではもうどうしょうもなく、一生その不公平さを引きずって生きるしかない、そんな人間を作らないでおこう…と。そして、この社会の誰と立場を交換されても、自分の精神や能力などを使って、現在と同等の人生を謳歌できる社会を作ろうではないか…そうまとめられるわけだ。

 だが、それが奇麗事であると思う人は多いだろう。まず、人種や性別、立場や社会的地位などによる差別を撤廃しようというリベラリズムの前提自体は許せるにしても、実際にそういったことによる差別は無くなりそうにもないし、就職や社会的権利などの面での差別が無くなったとしても、社会生活において、完全に差別が無くなるなどという気配は見えない。さらに、そこでは「社会的」立場による差別の撤廃を謳うわりに、容姿や頭脳などの「生得的」な特性は、アイデンティティーとして、むしろ多様性が認められている。しかし、実際には、容姿や頭脳などでもって差別されることの方が多いのではないか。
 そんな感じで、まずはスタートラインの前提すら危うい感じなのだが、走り始めた後の、「能力」による争いというやつになると、もうどうしょうもなくなってくるように見える。スタートラインの話は、リベラリズムの範疇になると思うが、走り始めた後の、優勝劣敗という、システムのルールは、ネオリベラリズムと呼ばれる範疇のものだ。ネオリベとも略されるが、これは自由競争を促す体制のことで、リベラリズムとは直接関係ないと思った方が理解はしやすいかもしれない。
 いずれにしろ、どうしても埋められないスタートラインでの差に加え、戦う為の武器である、容姿や頭脳、運動神経などの個人差が大きくて、とてもフェアな戦いをしているようには思われない。それなのに、「人間はみんな才能がある」とか、「勉強だけが全てではない」とか、「努力すれば成功する」とか、無責任な煽り文句だけは充実しているようだ。これでは、「人生に負けた」と思った輩が、立ち直れないほどの挫折感を味わい、反社会性を抱くのも当然だ。
 建前ばかりの社会では窮屈すぎる。勇気を出して、本音で叫ぶことも必要だろう。しかし、「生まれた時から負けが決まってるのだよ」などと、誰が言うことが出来るのだろうか…。怖ろしすぎるね。
 あまりゲームをやらない俺だけど、ファンタジーに対しては強い思い入れがあるし、ファンタジーの世界を生きたいという願望もある。では、「ファンタジーとは何か」と言えば、俗な表現を使うならば、『剣と魔法の世界』的なことになるのだろうが、ようするに、「全てが科学的に実証された世界」ではなく、「神話や伝説、言い伝えなどにより形作られた世界」とでも言うか、「未確認・不確定なものを、そのまま受け入れるという体制」に他ならないのではないか。
 「ファンタジー」の対義語として、安易に「科学」を持ち出すことの危険性はあるだろうが、科学こそ、未確認・不確定なものをデータベース化・理論化していくものであって、科学が発展するほどに、いわゆるファンタジーは消失していくだろうことは疑い得ない。曖昧なものに、確認可能、検証可能、再現可能な答を与えるものが科学だからだ。
 その逆の考えで、厳密な意味で妖怪などいなくても、人々がみんな妖怪がいると思って生活しているような世界では、妖怪がいるのと同じだろうし、竜神様に生贄を捧げるとして、若い女子を湖に投げ入れたとしたら、それは竜神様がいるのと機能的等価だと言える。誰も見たことがなくても、それを受け入れて生活するならば、それは存在しているのと同じだというわけだ。そこにファンタジーの本質があると思う。

 だが、俺達が望むのは、そんなものではなく、現実にドラゴンが飛び、丘の上には伝説の剣が刺さっているような世界だ。それらは、ゲームの中で体験するしかないとしたら、なんとも悲しい話ではないか。ちなみに、俺は和風ファンタジーが好きなのだが、このジャンルは地味に見えるのか、華々しい成功を収めづらいようだ。ゲームでも、『天外魔境』、『桃太郎伝説』など、秀作は揃っているのだが、やはり『ドラクエ』、『FF』ほどの興業的成功は収めていない。和風ファンタジーもので一番有名なのは、漫画、及びアニメの『ゲゲゲの鬼太郎』だろうか。妖怪なんて連中は、確かにイイ。
 逆に、洋風ファンタジーは、その知名度の割りに理解のされ方が浅いのかもしれない。日本で流通されている洋風ファンタジーでは、ヨーロッパ中の伝説や神話などから持ってこられた怪物や神や巨人などが、節操なく詰め込まれているからね。何が起源なのか、よく分からないままに名前だけ知っているなんてものが多い気がする。
 ちなみに、ヨーロッパのファンタジーは、大きく分けて四つの系統があると言われている。すなわち、【ギリシャ・ローマ】、【ヘブライ(キリスト教)】、【ゲルマン(北欧)】、【ケルト(ドルイド教)】だ。洋風ファンタジーの敵キャラなど、そのゲームオリジナルのものを除けば、ほぼこの中に起源を見出せるだろう。
 そんな別々の文化を起源に持つキャラクター達を強引に融合させるという辺りに、日本人の西洋に対する無理解や無茶苦茶さを感じるわけだけど、実はそういった他文化や他宗教の世界観の習合というのは、現実的に起きてきたことなんだよね。例えば、ここがキリスト教理解を難しくしている所でもあるけど、本来のキリスト教世界観に、土着の文化が入り込んで、本来の教義や行事とは関係ないような方向に発展するということがあるからね。イースターとかハロウィンとかは、春を祝う土着の祭りや、収穫祭が起源だというのが定説だし、クリスマスだって、本来は冬至を祝う土着の祭りだったという説があるくらいだし。
 そんな感じで、別の文化や宗教が習合し、そこから新たな「設定」や「物語」が生まれるということはよくあるし、そういう、何でもごちゃ混ぜのカオスから、良質のファンタジーが生まれてくるものなのかもしれない。東洋でも、仏教とヒンドゥー教とか、神道だとか、ガンガン習合しているしね。
 そう考えていくと、科学(コンピューター)の発展によりファンタジー(ゲーム)が隆盛になった世の中など、皮肉以外の何ものでもない。もはや科学を捨てて、人類はファンタジーに生きるべし。
 すっかりゲームもやらなくなったけど、本当はゆっくりRPGでもやりたい気持ちはあるんだよね。良質のRPGは、街やフィールドを歩くだけでも面白いけど、あの感覚をしばらく味わってないからさ。特に最近は3Dが当たり前になっているようだし(古いか)、技術革新により、かつて俺達が夢見ていたようなゲームが現実のものとなっているようだ。
 かなりゲームに対しての思い入れはあったはずだし、現実逃避もしたい方なんだけど、もう10年くらい最新のゲームはやってないんだよね。PS2なんか、画面すら観たことないし…。
 一度、パソコンでオンラインRPGはやったけど、確かにアレは面白い。まさに、世界を堪能してるって感じがしたけど、面白すぎて、ハマり過ぎる予感がして、一ヶ月経たずにヤメちゃったなぁ。

 オンラインゲームといえば、もはやすっかり定番として落ち着いたのかな。まだマニアックな一部ファンのものっていうイメージもあるけど、そういう「現象」としての面白さに目を付けたクリエイター達が、様々な創作活動の題材としているようだ。
 『.hack』なんかは、モロにオンラインRPGをモチーフにしたアニメだったけど、完成度は高かったね。今まで、こうした現実と非現実の錯綜モノってのは、妄想や夢、あるいは、世界の境い目的超常現象や、未来の機械の使用などによるパターンがあったけど、オンラインゲームをモチーフにすれば、現在の、現実の話として描けてしまう。実際、特殊なゴーグルやグローブなどを用いて世界を体験するという、「バーチャルリアリティー」も、そろそろ現実味を帯びてきた頃だし、ゲームの世界を「直接」認識することも可能になるだろう。
 コンピューター上のデータを人間が「直接」認識するという構図自体は、『攻殻機動隊』や『マトリックス』などでも見られ、90年代くらいから、一つの王道的なサイバーパンクの意匠となった。ちなみに、今挙げた二つの作品では、人間の脳とコンピューターは等価なものとして扱うことが出来、人間の「魂」がコンピューター世界を彷徨うことが出来るという点で共通しているが、前者は、人間が自身の能力を拡張する為に行ったものであるのに対し、後者は、コンピューターが人間を支配する為に行ったものであるという違いもある。
 そういったモチーフは、昨今さらに増えているようで、現在深夜にやっているアニメ、『RD潜脳調査室』や『『秘密 〜The Revelation』などにも見られる。前者は、『攻殻』と同一の世界観で、脳を「電脳化」した人類の話で、後者は、脳を機械にかけることにより、その人が見た映像を再現することが出来るという装置を使い、犯罪を解決していくという話だ。もはや、脳とコンピューターを等価に扱えるという設定は、抵抗無く受け入れられるらしい。

 しかし、俺がオンラインゲームに対して抱いた不安が、再び湧き上がる。最近も、テレビで『マトリックス』シリーズを放映していたが、この作品の一つのテーマ「はたして、夢を見続けてはいけないのか?」という問題は、ますます現実的な意味合いもって俺達に肉薄しているような気がする。
 点滴で栄養を摂取し続け、コンピューターによって与えられた楽しい夢を、死ぬまで見続ける…。ひょっとしたら、それこそが人類の窮極の理想状態で、そこに向けて日々進化・進歩してきたのだとしたら、もはや抗う理由すらない。マトリックスの描く世界は、コンピューターにより人間が支配されているという構図になるが、実は、人類は自ら進んでデジタルの世界に身を投げようとしているのではないか。
 常日頃、非現実のキャラクターに対して特別な感情を抱くことの素晴らしさ、そして危険性を喧伝し続けてきた俺だが、現実の異性どころか、現実世界そのものからの乖離が行われようとしている。これは、変態の彼岸に現われる、人類の次なるステージ、理想郷だ。そして、本能的な危機感にも関わらず、未だ、それに対する明快な反駁はなされていない。なんとかして、これを打ち砕く倫理を構築せねばならない。さもなくば、人類はエデンの園に帰還することになってしまう。あの幸せで、退屈な理想郷に。
 なんで日本人ってのは、「S?M?」とか、「何フェチ?」とか、性癖を聞きたがるのかねぇ。いや、本当言うと、他の国の方々を知らないから、何とも言えないとこはあるけどさ。
 もう、そういうのは変態の内に入らないってことなのかな。「攻めが好きか、受身が好きか」とか、「異性のドコに魅力を感じるか」とか、そういった言葉に置き換え可能なんだろうね。世の中の「真性」の方々から、「何をヌルいことを言っているのか!」と激怒されそうだよ。軽々しく変態の世界に入ってくるな…と。
 フェチなんてのも、なかなかスゴイ概念だけどね。ほとんど病理学の世界だよ。もちろん、フェチと言い換えることで表現を抑えてあるけど、フェティシズムってのは、本来、人間ではなく、モノそれ自体に惹かれる傾向を表す概念のはずだ。
 つまり、例えばさ、足首フェチなんてのは、異性(同性もか…)の足首だけ見てればそれだけで性的満足感を得られてしまうっていう輩のことで、充分に倒錯者の範疇に入る。相手の性格だの何だのってのを全て無視して、外見的な面も、今の例で言えば、足首以外の全ての部分を無視して、ただ足首だけで満足だということ。足首の素敵な異性に対して魅力を感じ、そこから健全に性的な発展を望むようなのは、フェチの風上にも置けない。
 実際に性行為を伴うかどうかという所は、変態と常人、倒錯者と常人を分ける為の重要の線引きの一つだが、ホンモノのフェチの方々は、性行為無しで充足できてしまうようだ。それはSMも一緒。プレイの一環として嗜むなんてのは邪道で、ムチで打たれているだけで絶頂に達するというようなのが、一人前のMってもんだ。

 フェティシズムは、マルクスによって、社会学的な意味での注目を集めた概念でもある。物神崇拝などとも訳されるが、例えば、貨幣などは人間の社会的な営みを円滑に進めるための手段であったはずだが、それが目的と化し、貨幣が人間を支配するような構図が出来てしまったということになる。唯物論などという考えがあるが、世界を支配しているのは物質としての側面であり、人間の行動なども、能動的な精神活動の賜物というよりは、市場などにより受動的に動かされた結果だというような考えになる。
 社会主義・共産主義という概念と唯物論は、必ずしも必要十分条件でないようだが、マルクス理論はそれらを土台にしているので、安易に切り離して考えることも出来ない。そこでは、別に人間の精神自体を否定しているのではなく、経済的な側面を変えることにより、人間が安定的で健全な精神状態を保てる社会を作ることが出来る…といった形で、モノ的側面から、精神的側面までもカバーした理想状態に近づけるという論理展開が生まれた。
 だが、そういったマルクス流の唯物史観が崩壊した後の、いわゆるポストモダン的消費社会においてこそ、フェティシズムは現実的な側面を見せ始めた。つまり、消費社会では、その商品の持つ「魅力」が重要で、いわゆる性能だけでなく、デザインやブランド名、流行など、他の商品との差異が価値となり、そのモノを「使うこと」よりも、「持つこと」自体が満足感を充足させることになる。これは、まさにフェティシズムだと言えるだろう。
 そして、さらに今では「魅力」は「萌え要素」と置き換えられ、実際に、モノに対して性的興奮や恋愛感情などを誘発させる為に先鋭化されている。マルクス理論でのフェティシズムのように、「快楽を求めるが故に、モノに支配される人間」という構図ではなく、むしろ開き直ったかのように、「快楽を求めるが故に、能動的にモノを支配しようという人間」という構図への逆転を図ろうという算段に見えるが、はたして人類はモノを支配しているのか。仮想の萌えキャラを目の前に、ますます忠実なモノの奴隷になっているようにも見えるが…。
 民主主義が行われていない国は、武力で制圧しても良いのか。この問題は、かなり議論をされてしかるべきだと思うのだが、実際には、ブッシュ、及びネオコンにより、イラクへの派兵の口実とされてしまったのは記憶に新しい。もちろん、これは大量破壊兵器の有無といった大義の妥当性が危うくなっていたことを受けての詭弁にすぎなかったわけだが、「フセインの独裁政権を倒し、それにより支配されている民衆を解放する」と言われた時、それに反する言説が強く上がらなかったのも事実。
 人権だ、民主主義だという言葉が上がると、なかなかそれに対して反論するのは難しい。今では、アメリカによるイラク統治の惨憺たる失敗を知っているから、俺達も声を荒げることができるが、はたして、実際にフセインの圧制により苦しむ民衆をアメリカが解放し、それにより、平和で民主的な国家が誕生したとしても、それでも俺達はアメリカを非難できただろうか。これはやはり一考されて良い。
 イラク戦争では、しばしば民主主義という言葉が使われたようだが、そこには当然、自由主義の精神が根ざしていて、この自由主義、リベラリズムこそが、民主主義を育んだとも言える。リベラリズムを全うする為の政治手段として民主主義があると言っても良い。つまり、アメリカは、自由主義、民主主義を根ざすためにイラクを攻撃したという口実を使ったということだ。

 自由主義とは、史的妥当性を持つ定義を与えるなら、「国家権力からの自由」と言える。悪辣な権力者や、国家システムの暴走などにより、国民の自由が奪われる、国民の人権が損なわれる、そんなことのないように…ということ。ここから、国民主権や基本的人権の尊重といった概念も生まれたわけだ。
 しかし、ここで問題が生じる。世界には、宗教や因習が国家体制に密接に関わり、国の公認の下、傍目には人権侵害のように映る事柄が行われている場合があるということだ。カースト制度や割礼、信仰の選択の不自由や、性別による区別などなど。
 それらは、例えば日本でも問題として挙がることも多い。天皇制などという大きなものに始まり、古典芸能などで女性の排斥を掲げるものや、猥褻ともとれる伝統行事、そういったものがリベラリズムの原則に反しているのではないかという意見だ。特に、日本の国柄や伝統などが背景にあると、「これは歴史的にそう決まっているものだから…」という反論を行うことになるのだが、そういう保守的な言説は勢いを失いつつあり、リベラリズムの牙城に屈しつつあるように見える。
 そして、それが最大限に暴力的な形で現われたのがイラク戦争だと言えよう。その国の歴史や伝統などは鑑みず、人権侵害や差別が行われていると見れば、武力をもって攻撃する。やはり、何か怖ろしいものを感じずにはいられない。
 ここで思い出されるのは、大航海時代のキリスト教布教だろう。「正しい教え」を広める為、その国の伝統などを考慮せず、キリスト教を広める…。そういった構図も似ているが、決定的なのは、リベラリズムがキリスト教から生まれたものだということだろう。
 キリスト教、特にプロテスタントの考えから自由主義、資本主義などが生まれたというのは、今や最も影響力のある説だ。キリスト教には、外面的な戒律が一切無い。神は内面だけを判断する。そこから、内面は神、外面は人が裁くという原則が生まれ、思想の自由という概念も生まれた。
 しかし、一般的な宗教には、戒律や行動規則、男女や身分による差別が伴う。それらは外面的な部分で人々に負担を強いているように、外部にいる人からは見える為、リベラリズムの原則に反したものに思えてしまう。そう、リベラリズムの強要とは、キリスト教以外の宗教や土着の伝統などを排斥しようとする、「布教活動」となる危険性が高いのだ。常に警戒し、考え続ければならない問題だろう。
 「同じ人間同士が殺しあうなんて信じられない…」こんな言葉をよく聞く気がする。まるで「優等生」の作文だ。こんな意味の無いキャッチコピーを、公共の電波で聞く不快感といったらない。恐らく自分の頭で考えた言葉ではないだろう。どこかで聞いた言葉を引用しただけ。それはほとんど明白だ。だが、救いがたいのは、こんな愚鈍な一言を加えることにより、何も見えなくなってしまうことだろう。
 人間というのは、そう簡単に「同じ人間」を殺せるものではない。人を殺すというのは、非常にエネルギーのいることで、凄まじい怒り、苦しみなどの負の感情によって引き起こされることが多い。それも、大概は突発的なもので、冷静になった後、事の重大さに気付いて愕然とすることもある。だが、それは人間の生得的な情動に根ざしたもので、ある意味、「人間らしい」とも言える。他人を殺したいほど憎んだことのある者など、掃いて捨てるほどいるのだ。
 むしろ、俺達が忌避すべきは、相手を「同じ人間」だと思わなくなるような思考回路、システムだろう。「同じ人間」だと思わなくなることで、罪の意識が軽減され、たいした心的エネルギーを費やさずに人を殺すことが可能になる。個人レベルでの犯罪でも見られる傾向だが、顕著なのは、組織的大量殺人、戦争、粛清などの類でだ。
 「相手は、自分達とは違う」という、この意識を生み出す構造こそが、本来ならば人を殺すほどのエネルギーにまで高まっていない状態で、殺人を犯させる動力になる。「有色人種だから」、「ユダヤ人だから」、「異教徒だから」…だから、「俺達とは違う」、「同じ人間ではない」そこに辿り着いたら、後は簡単だ。使命感や正義感が強かったり、後は、真面目にコツコツと仕事をするような人間ほど悪鬼のような所業をする。
 また、「同じ人間ではない」というのと同様の思考回路に、「自分は正しく、相手は間違っている」、「自分は善で、相手は悪だ」というのもある。人を殺すための大義名分、よく出来た大義名分こそが、人類にとって、最も恐れるべきものではなかったか。20世紀の負の遺産と呼ばれる、ファシズム、社会主義政権、そして、21世紀初頭を賑わせた、宗教対立、ネオコン、これらは人々に魅惑的な大義名分を与えた誘惑の果実だ。

 リベラリズムの本義は、国家権力からの自由だ。人々は自然状態では混沌としたベヒーモスであり、それを抑える為には、更なる怪物、国家というリヴァイアサンを持ち出すしかない。だが、もちろんこのリヴァイアサンは、凶暴なることこの上ない。徹底的に縛り上げることが必要だ。こうして、近代国家は生まれた…と論ぜられる。
 個人個人が出来る殺戮など、たかが知れている。いくら混沌としていても、ある程度の均衡状態は保たれるし、自然の摂理の範囲と言っても良いだろう。しかし、国家権力は、整然と、粛々と人々を殺していくことが出来る。少数の権力者により、国の大半の命が失われることさえありうる。そして、実際にそういう歴史を見てきたのは、他ならぬ俺達だ。
 気軽に善だ悪だという言葉は使えない。しかし、己の衝動や快楽の為に人を殺すような者が、はたして悪の名に値するのか。そんなものは動物と大差ない。では、獲物を狩るライオンは悪なのか。血の滴る肉を頬張り、悦に入るライオンは悪なのか。
 所詮、一人の人間が行うことなど、悪の名に値しない。せいぜい、ケダモノの所業だ。
 かつて室町の世に、一休さんという坊主がいた。まさに天才的と形容すべき才に恵まれていたが、背徳の限りを尽くした破戒僧でもある。その彼が曰く、「仏界入り易く、魔界入り難し」…と。人間は、そう簡単に仏界になど入れるものではない。ましてや魔界になど…。
 ついに、宮崎勤が裁きを受けた。これを、俺達はどう捉えたら良いのだろうか。この件に対しては、幾つかの方向からのアプローチが可能と思うが、俺が思うのは唯一つ。「宮崎勤とは、一体誰だったのか」ということだけだ。
 だが、この疑問に対しては、満足のいく答など与えられそうもない。少なくとも、この答が与えられる前に、彼は逝ってしまった。彼は本当に最低最凶の「悪」だったのか。ホンモノの「異常」者だったのか。だとしたら、俺達が彼の部屋を覗き見た時に感じた、あの親近感は何だったのか。
 もちろん、彼の犯罪がいささかも免責されるとは思っていないし、擁護するつもりもない。そんなものに意味もない。現行制度下では、死刑判決も妥当だろう。ただ、今この時期に処せられたという点については、腑に落ちないものはある。秋葉の事件の影響が無いなどと考える方が不自然だろう。見せしめだった。その可能性はある。しかし、それすらも矮小な問題に見えてしまう。
 確かに、彼は異常ではあっただろう、当然だ。似たような境遇に置かれた人間が全国に何十万といるというのに、彼の犯罪を環境や境遇のせいにするわけにはいかない。だが…問わずにいられない。彼は悪い奴だったのだろうか。世の中には悪い奴が山ほどいる。反吐の出るような人間も平然と生きている。そんな奴をも上回るほどの巨悪、宮崎勤…などと言ったら、彼はきっと困惑するだろう。愚鈍にも、謙遜するかもしれない。
 もちろん、司法は彼を悪と判断したわけではない。そこは司法の立ち入れる領域ではない。司法はただ、彼の行為を刑法と照らし合わせて、死刑が妥当だと判断しただけだ。最高の悪人でも、何もしなければ咎められることはないし、凡庸な人間でも、人を殺してしまったら罪に処せられる。
 では逆に、人を殺した人間は悪なのか。悪という言葉を有罪と読みかえれば、法学的にも悪だと言えそうだが、人を殺したからといって有罪になるわけでもないのも常識だ。それに、有罪を悪と読みかえるのは、法学の本義に適わない暴挙だろう。先ほども言ったが、法は行動を裁くだけ。百歩譲って、「悪いことをした」とは言えても、「悪人だ」とは言えない。内面は裁けないのだ。
 それでは、悪を規定するのは何か、道徳か。しかし、道徳とは共同体的価値観に立脚するものような曖昧なものである上、究極的には個人の内面の問題となってくる。そういう不確定なものを基準とするわけにいかない所から、法律やリベラリズムの原則が出来たとも言えるのだ。

 それでは、一体どこに悪だなどと断言できる権利を有する人間、または規範、理論、社会工学装置があるのか。かつて、カール・ヤスパースは、第二次大戦直後、自国ドイツの行為を振り返り、四つの罪を挙げた。曰く、「刑法上の罪」、「政治上の罪」、「道徳上の罪」、「形而上的な罪」…。これらは、戦争に関わるものであるので、今回の件に直接応用しづらい上、現代の理論的立場から見れば曖昧に見える面もあるし、分かりづらいものだが、ヤスパースの自説に則り、これらの罪を裁く者を挙げると、全体像が見えてくる。
 すなわち、刑法上の罪を裁くのは【裁判所】、政治上の罪を裁くのは【戦勝国】、道徳上の罪を裁くのは【自己の良心】、形而上的な罪を裁くのは【神】であるということで、まさに、善悪を裁けるのは、この形而上的な罪を裁く者、神のみであろう。これは、リベラリズムの本義にも適う見解だと思う。
 俺達に悪は裁けない。せいぜい法の条文に抵触したかを判断するだけ。それが楽園を追われた者の出来る限界だ。裁判員制度が現実となり、もう目を逸らし続けるわけにもいかなくなった。立ち止まる余裕すらもない。
 初音ミクに萌えてしまう…などと言うと、やけに変態性を際立たせる響きのようなものを感じられる。これは一体何なのか。やはり、ホンモノの変態なのだろうか。
 いや、一歩引いて考えてみよう。例えば…『タッチ』の浅倉南に萌えると言えば、かなりの賛同を得られるような気がする。それは何故か。浅倉南という存在が、背後に強力なストーリーを背負っている為、そういう背景全てを鑑みた上で、「浅倉南のような女性がいたら、それは萌えだよね」という感じで、ある程度客観視されているからではないか。それに比べ、初音ミクには物語としての背景が存在していない為、「初音ミクのような…」ではなく、生の「初音ミク」自体として迫ってくるのを感じられるからではなかろうか。
 ようするに、浅倉南のポスターを部屋に貼ってあったら、「あ、『タッチ』が好きなんだろうな」とか、「南ちゃんの設定は良いよね」などといった具合に、物語全体を背後に想定した上での感想が浮かぶだろうが、初音ミクのポスターが貼ってあったら、背後の物語が希薄な為、「こういうアニメの女の子が好きなのか」と、直接的、短絡的にとられかねない。下手したら、そこから「アブナイ人なんだ…」とか、「犯罪者予備軍だ」などと見られるだろう。
 そこで俺達は主張する。「初音ミクは歌うんですよ…」と。しかし、これが果たして変態だといういわれなき(?)偏見を払拭するに足るものであるかというと、甚だ怪しいとしか言いようがない。電子音に萌えるというのは、変態の上塗りでしかない可能性が高いということだ。
 自分の「声」を持っており、様々な歌を歌わせることが出来る、これだけでも、一般的なアニメやCG作品よりも初音ミクは「人間に近い」と言うことも出来るだろう。だが、この中途半端に人間に近いということが、逆にマジっぽさを引き立たせて、客観的に見る人を不安にさせるという面もあるようだ。例えば、ある女子が、自分の好きな漫画のキャラを見るだけでは我慢できなくなり、そのキャラが喋るというソフトを手に入れ、色々な言葉を喋らせたり、歌を歌わせたりしていたら…。これは、具体的に、身近なオタク女子を想定してみれば良い。やはり、より変態度が増しているような印象を受けるだろう。「そろそろマジじゃん…」みたいな。

 変態という言葉の語義的には、「生身の異性から遠いものに魅力を感じる」というニュアンスがり、より遠いものを愛でるほど変態性は高いということになる。例えば、世の中にはドアノブを見て興奮するなどという方々がいらっしゃるらしいが、それなどは、かなりの変態度合いだろう。その流れで考えていくと、鉛筆で書いた、異性の裸体の一部に興奮するような輩は変態で、リアルにCGで再現され、自分の声を持ち、行動パターンなども組み込まれたキャラクターに興奮するのは正常だということになる。だが、ここで変態の基準として考慮すべきは、後者の方がより「マジ」だという点ではないか。
 俺達が昨今のリアルなCGに、そして初音ミクに対して萌えながらも、何か根源的な背徳感を覚えざるをえないのは、自分の心の中の「マジ」に気付くからではないか。本気で代替物に満足してしまうという恐怖からではないか。そう、浅倉南萌えだのと言いつつも、鉛筆書きの異性の体に興奮しつつも、常にその妄想の彼岸には、現実の異性の存在があることが大前提だった。しかし、「現実の異性無しで済ませられるかもしれない」という危うさを感じてしまった時、ホンモノの変態への扉は開かれるだろう。キーワードは背景にある物語だ。そこには俺達の生得的、経験的、観念的な知の集積があり、他者の存在が媒介されている為、変態性は乏しいだろう。もしも、「物自体」に直接触れてしまったら、その「物神性」が直接俺達の観念に結びついたら、その時はヤバイ。誰か止めてくれ。

 最近、初音ミクが気になってしょうがない。いや、むしろ知ったのは遅かったんだけどね…。そういう局所的なムーブメントがあること自体は知ってたけど、自分には関係のないことだと思っていたんだ。
 俺は、好きな曲をYou Tubeで聴くことが多いけど、そんな中に【初音ミク バージョン】みたいなのが散見され始めて、なんだか得体が知れないから無視してたんだけど、ある時、おそるおそるクリックしてみたら…これが意外と良くってさ。
 ていうか、全く知らない人に向けて、説明が必要ですかな。まぁ、俺も詳しいわけじゃないんだけど、初音ミクというのは、人工的に歌声を作り出すことが出来るソフトのイメージキャラクターなんだよね。シンセでも声なんかを表現できたりするけど、あれの萌えバージョンみたいなさ。それで、その人工音声を、イメージキャラクターである初音ミクの歌声であるとして、ミクタン自身もバーチャルアイドル的な感じで売り出してるんだ。
 いわゆるバーチャルアイドルなんていうと、伊達杏子の興行的失敗を思い出す人もいるかもしれないけど、伊達杏子がCG技術の「リアルさ」を追求したものだとしたら、初音ミクの方は、もう少し萌え要素重視で、基本的には二次元のアニメ絵。一見、リアル志向とは正反対に見える。
 まぁ、やっぱり我々日本人には(?)リアルな人間をCGで再現するといった方向よりも、アニメ絵の方が萌え心をくすぐるというのは、すでに周知の通り。そして、それは「人間に近ければ、その分リアリティを感じられるというわけではない」という、キャラクター論の真髄に関わる部分でもある。…が、それについては、また改めて論じたい。

 まぁ、初音ミクタンは、一般に「萌え要素」と言われる様々な意匠を凝らされたキャラクターで、そのルックスもなかなか惹かれるものがあるけど、やはり魅力は、その歌声だと言って良いでしょう。この、鼻にこもった感じのアニメ声はイイですね。子音の発音など、やや覚束ないところはあるけど、それが逆に萌えだと感じた時点で、制作サイドの術中にハマってる可能性が高い。過去にも音声再現みたいなソフトはあった気がするけど、どうしても不自然な仕上がりのものが多かった。それを、萌え系にして、しかも、歌に特化したのは、やはりアイディアの勝利と言わざるをえない。ソフトの弱さを逆手にとった感じだ。
 俺は、形而上の存在としての萌えっ子、アニメ声、つまり、「萌え」のイデアのようなものには並々ならぬ執着があるんだけど、形而下の実存的存在としての萌えっ子に対しては、やや懐疑的というかなんというか…。まぁ、何のことを言ってるのか良く分からないと思うけど、ようするに、萌えっ子に対する幻想は甚だしいんだけど、現実に存在している女子にそういったものを期待すると、落胆することが多いってことで…。
 そろそろ皆さんも呆れてきたかもしれないけど、気持ちは分かるという人も多いでしょう。萌えを全面的に押し出すような女子って、いわゆるザ・芸能界にはあまりいないけど、声優だとか、地下系のアイドル業界にはわんさといるよね。でも、そういう方々も、正直言って、(金づるとしての)オタク相手の人気出すため、「計算」として演じてるんじゃないかってのが見えるんだよね。本当に「そういう人」だったら良いんだけど、裏では何を考えてるか分かったものじゃないから…。そういう、勝手な被害妄想(?)に、日々思い悩まされているわけだけど、それに応えてくれるのは、やっぱり二次元のキャラクターだということになるだろう。しかし、そんな二次元キャラがアニメ化、ゲーム化した途端、声優がついてしまって、一気に興醒めとなってしまうんだよね。
 で、初音ミクの話に繋がるわけだけど、ようするに、初音ミクは喋るんだけど、声優がついていないわけだ。本当に、初音ミクが自分の声で歌うってこと。いや、これは本当に革命的なことでしょう。ついに人類は、人工的なコンピューターの音声にまで萌えるようになってしまった。これは人類に対する挑戦だ。気をつけないと、気付かないうちに、現実の女性に萌えなくなってしまうぞ。俺だけか…。

 今回の秋葉原の事件のように、捕まって死刑になる覚悟が出来ている犯人に対しては、法律というのは、これほどまでに無力なのだということを思い知らされるね。法によって重罰を示唆されていても、それで構わないってんだから、抑止力になるわけがない。後はせいぜい銃刀法なんかで規制していくくらいか…。
 今度の事件によって、法的な問題や社会道徳の問題として色々挙がってはいるけど、必要以上の規制や、過剰な道徳なんかが叫ばれるのは、必ずしも良いことではないと思う。例えばさ、「どうして人を殺しちゃいけないのか」という質問が以前話題になったけど、大人達はまるでまともな回答が出来なかった。実際、この質問に対しては、幾つかの方向から、とりあえず答えることは可能ではある。しかし、基本的には道徳や倫理の次元では、これに対する満足のいく答えは与えることは出来ない。何故なら、道徳や倫理なんてものは、社会や民族、個人、環境、宗教などによっても違うし、状況によっても揺れ動く、脆弱なものだからだ。

 実際、近代法学、及びそれの立脚するリベラリズムの概念では、その問題に対する答えを棚上げしておくことによって決着した。すなわち、「人を殺してはいけないなどということはない」というのが答え。もう少し噛み砕いて言えば、「人を殺すのは『良い』とも『悪い』とも言えない」ということ。なぜなら、「良い」とか「悪い」という断言は、人間の内面、思想信条に関わるもので、そういう曖昧な言葉を使うことはヤメて、外面的な行為だけに言及しようということになった。
 まだ分かりづらいかな。人を殺すことは「善」か「悪」かなどという問題は、ひとまず置いておいて、でも、人が人を簡単に殺せるような社会はみんな嫌だし、それでは社会が回らないということで、例えば殺人だったら、『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する』ということにしようと決まったというわけ。ここには、「人を殺すことはいけない」とか、「人を殺すべからず」といったような前近代的用語は一切含まれない。単に、人を殺した者は、これこれの刑に処するというだけ。

 同様に、「全ての人間には人を殺す権利がある」ってことも、この際だから言っておいた方が良いのかもね。PTA諸氏が聞いたら昏倒するような言葉かもしれないけど、別に俺の持論ではなくて、近代社会の大原則だから仕方がない。そもそも、「人を殺す権利が認められない」ってのがどういう状況なのか考えてみると話は早い。つまり、「人を殺してはいけない」としてしまうと、人に価値観を押し付けることになってしまう。それは近代法概念ではありえないことなのだ。内面の自由という、最も根本的な所に関わる問題だね。
 もっと言えば、「人を殺す権利を認めない」というの空虚な言葉であって、それをどう現実的に反映させるかというと、例えば、人を殺そうと考えていると思しき人間を取り締まるべきだとか、そもそも脳内の殺人などに関わる部位を除去すべきだとか、心や脳の問題になってしまうことが懸念されるのだ。内面に干渉するのは不可能。となると、人の心理や事前の行動を規制するような方向にいくのではなく、『(人を殺す権利を規制するわけにはいかないけど、)もしも人を殺したら、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する』という感じで、実際に行われた行為を条件構文で処理するしかない。
 もしも、人を殺す権利を認めないということになったら、人間にとって、人を殺すということは「悪」だということになる。思弁的な活動として、道徳として、哲学として、文学として、「善」と「悪」の問題を考えることは重要だと思うが、少なくとも法的・リベラリズム的観点からは「善」だ「悪」だといった内面的な部分には一切触れないことになっている。もしも人間にとって人を殺すことが「悪」だとなったら、どんなことがあっても絶対に人を殺してはいけなくなる。正当防衛も、死刑執行も、戦争中の兵士同士の銃撃戦も、全てダメだなどと、そんな理想論を唱えても仕方ないでしょう…。
 秋葉原の事件の余韻は、まだまだ残っている感じですな。でも、この事件の影響で、色々と自粛ムードみたいになってるのは頂けないね。もっと言えば、「人の命の尊さ」みたいなことを声高に叫ぶ輩にも胡散臭いものを感じざるをえない。そりゃ、遺族の方や知り合い、関係者達が悲しむのは分かる。犯人を憎みもするだろう。当然だ。だけど、関係ない第三者がそこまで悲しむものかね。テレビなんかで、殺害された人の紹介VTRみたいのを観たら、そりゃ感情移入して、可哀想に思うよ。でも、殺された人の顔も分からなかったら、普通は悲しまないよね。
 こんな正しいことを言ってしまって良いのか分からないし、あえて言う必要もないのかもしれないけど、人が死んだからって、普通は悲しくなんかならないし、それが正常なんだ。当然だよ。「たとえ世界を滅ぼしても、君を守る」みたいなセリフに熱を上げている婦女子の方々の例を挙げるまでもなく、俺達は日常的に現実・非現実を問わず押し寄せる「死」のニュースに平然としているではないか。むしろ、それらの半分くらいは楽しんでいるフシもある。
 今回の事件だって、被害者一人ひとりの顔が分かるし、ニュースでも特集してるから悲しい気持ちになるけど、それだったら中国の地震で何万人も亡くなってんだから、もっと悲しむべきでしょう。そっちの方はみんな案外平気だったりしてね。それに、今回の事件だって、もし青年が無辜の民ではなく、悪を滅ぼそうと思って非合法組織にでも乗り込んで皆殺しにしたら、はたして同じように悲しんだかね。喝采しかねない。
 で、俺が言いたいのはさ、「みんな同じように悲しむべきだ。人の命は平等で、差別してはいけない」なんてこととは全くの逆だから。自分の身内や愛する人、親しい人なんかが殺されたら悲しいに決まってるし、まったく見ず知らずの人が殺されても、それほど心に痛痒は感じないのが普通なのだ。もしも、どんな人間だったのかを具体的にニュースなどで知る機会があったら、改めて可哀想に思ってくる…と。そして、善意で頑張っている人が殺されたら可哀想と思うし、悪いことしてる奴が殺されても案外平気だろう。それが人間なんじゃないのかな。どんな人間の死をも同等に悼もうなんていう偽善を振り回すと、人間性がおかしくなるよ。そんな人間に限って、「誰でも良かった」なんて言って人を殺しかねないんじゃないかと思うくらい。「見ず知らずで、しかも何も情報も与えられていないような人が殺されても、特に悲しくない」これこそが『人間らしさ』なのだ。こういう正しいことを教えなきゃダメだね。

 ところで、今回の事件を見て強く思うのは、人間にとって、「最も忌避すべき悪とは何か」ということ。
・絶望に駆られて、無差別に殺害すること
・自分の快楽のために人を殺すこと
・親しい人に裏切られ、怒りのあまり殺すこと
・崇高な理想を実現するため、人々を殺すこと
・仕事として、淡々と死刑を執行すること
・自分の身を守る為に相手を殺すこと
・自分の子供を堕胎すること
・苦しんでいる患者を安楽死させること
・自分の命を絶つこと

 これらを、「全部同じように悪い。なぜなら、人の命は無限の価値があるから」などと、ヘドの出るような美辞麗句で逃げることは、もはや人類に許されることではない。厳密に、これはこうだから、これだけ悪い…と、直視しなければならないのだ。悪を見つめることの出来ない人間に、善への道を見出すことなど出来ないだろう。
 フラフラと、まるで引き寄せられるように秋葉まで行ってしまいました…。なんだかんだ言って、気になっていたみたい。改めて現場に立つと、やっぱり心に来るものがあるね。花束が沢山あったし、テレビカメラも来てたしさ。
 あの犯人もどうなのかね。やっぱり、世の論調も、彼は「犯罪傾向」が高くて生来の異常者である…というよりは、彼の精神状態が異常であって、そこには社会や彼を取り巻く環境の問題が大きいのではないか…という方向に収斂しつつあるのではないか。つまり、こういう人間って、潜在的に沢山いるかもしれないということ。「単なるキチガイの犯行ダネ!」と、一言で終わらせられたら、どれだけ楽だろうか。

 ただ、最近こういった衝動的無差別殺人が増えていることについてはどうだろうね。もちろん、背後には社会的原因などがあるだろうけど、「流行ってる」っていう一言でまとめられるのではないか。犯罪にも流行り廃りがあるからね。誰かが何らかの犯罪を犯した場合、それが、マスコミなどを通じて観た人にも影響を与えるということがある。そして、それに呼応、共鳴した輩が、玉突き現象的に、「自分も同様のことを行おう」と思う、もしくは、「さらにスゴイことをやってやろう」と思うことがありうるのだ。この犯人も、昨今の無差別殺人事件をテレビで観て、自分もやろうと思い立った可能性は高い。
 少し前まで流行っていた、弱者を狙った猟奇殺人事件を最近また見なくなったのは、単に流行が変わったからだというのに過ぎない。事件が起きた背景、原因なんてものは、幾らでも捏造できるし、むしろ、それがコメンテーターやジャーナリスト達の仕事だと言っても言いすぎではないだろう。一番の原因は、他者の事件への共鳴ではないか。
 かつて、三島の切腹が連合赤軍を奮い立たせたように、14歳の事件が連続したように、幼女殺害が頻発したように、一つの事件が、似たような使命感、苦しみ、欲望を持った人間の行動を惹起するということは珍しいことではない。少なくとも、ゲームだアニメだなんていうものよりは、自分と同じような気持ち・境遇の奴が事件を起こしたというニュースを見聞きすることの方が、事件の引き金になる可能性は高いと思われる。

 ただ、今回の事件の犯人に対する世間の気持ちとして、「憎しみ」「嫌悪」などは勿論あるだろうが、端的に「惨め」「ブザマ」だと感じた人も多いと思う。それは、俺達が彼の気持ちを理解できる部分があるからではないか…。
 感情の感じられない、人を殺すことが楽しくて仕方がない、そんな殺人鬼を、俺達はどこかでカッコイイと思ってしまうフシがある。これについては、言い逃れは出来ない。論証するには、メディアの中のキャラクターを幾つか挙げれば事足りるし、殺人鬼にカリスマ性を感じるという、テッドバンディ現象なんてのも現にある。そして、その理由は、理解不能なものへの畏敬から来るものではないか。
 それに比べ、今回の犯人など、昨今の衝動的殺人に対するこの気持ちは何か。彼は、世の中の負け組で、苦しみや矛盾に耐え切れなかったが「故に」人を殺し、徹底的にダメな奴で、徹底的に落ちぶれた「からこそ」自暴自棄になり、人を殺した。そう論理的に言葉にできるからこその蔑みだろう。俺達が彼等を見て「惨め」だと感じるというのは、彼等のその思考回路が見え、そこに脆弱性が見えるからに他ならない。そして、それは彼等の行動が俺達の理解可能な範囲にあるということではないか。
 そう、秋葉の彼の犯罪が惨めでブザマに見えるのは、彼の行動が理解できるからで、酒鬼薔薇の犯罪がクールに見えたとしたら、それは酒鬼薔薇の行動が理解できないからだ。それだけのことだ。気を付けた方が良い。この秋葉原の殺人事件の犯人を見て、惨めな、負け組の犯行だと思っている者は、自分が同じ状態に置かれた時に同じようなことをしてしまうかもしれないという潜在意識と葛藤しているはずだ。誰も彼を笑えない。彼を笑えるのは、真性の快楽殺人鬼達くらいのものだろう。
 秋葉原で事件がありましたねぇ…。テレビじゃ、これを「テロだ」なんて言う有識者もいるけど、センセーショナルなことを言えば良いってもんじゃないからね。テロってのは、「暴力を使った政治手段」だから。今回のは、単なる無差別殺人。こういう言葉ってのは、意外と大事だからさ。同時多発テロを「戦争だ」と言い張ったブッシュの詭弁によって、世論が誘導されてしまったという前例もあるし。
 しかし、なんでこんな凄惨な事件が起きてしまったかってのについては、みんなが分析してるけど、「社会の問題」と「個人の問題」が半々で挙がっているって感じかな。つまり、「社会がこうだから、こういう犯罪者を生んでしまった」っていうのと、「青年の心の闇が事件を起こした」みたいなのと二つが挙がってるってこと。これらは、大きく言えば社会学と心理学の領域で分析されるもので、勿論、どちらが正しいとは言えないけどさ。
 ここで「犯罪傾向」っていう概念を考えてみたい。人間を犯罪者と正常者とに分けるのではなく、犯罪傾向というものをどのくらい持っているか…といった形で、いわばアナログ的・段階的に「犯罪を犯しやすさ」を順序付けてみようというものだ。
 犯罪傾向が非常に高い人間、これは、もう生まれついての快楽殺人鬼、サイコパスといった系の人間で、脳が異常、少なくとも、標準的な人類の脳とは発達箇所、未発達箇所が明らかに違い、正常な生活を送ることすら出来ないような人ね。そういう人に対する分析は、社会がどうとかじゃなくて、もう個人の資質に収斂されるようなことになると思う。なんらかの社会的・環境的原因があったにしても、それはせいぜい引き金にしか過ぎないということでね。これはもう完全に心理学の領域だ。
 続いて、犯罪傾向が比較的高い人間。これは、理性で抑えることが出来る範囲くらいの人間ね。本当は犯罪行為や不正を行いたい気持ちがあるのだが、社会的な損得を計算して、表立って犯罪行為を行ったりはしないという程度の人々。特に、人を殺したいとかではなく、あくまで、金など、目的を達成する為の手段として犯罪行為を行うことに対する抵抗が低いっていうような感じね。
 そして、犯罪傾向が低い人間。人を殺すなんてことは勿論、万引きや不正などといったことすらしたくないというような人達。しかし、こういう人達が必ずしも人を殺さないかというと、そうでもない。例えば、自分の最愛の人が目の前で殺されたら、優しくて、正義感の強いような人間こそ、衝動的に犯人を殺すということがありうるわけだ。強烈な負の感情を抱いた時、正常な人間ほど異常な行動をとるということがある。戦争などといった極限状態での心理の問題とも関わるところだが、処方箋を与えるのは社会学だろう。

 で、今回の事件で言うと、犯人の犯罪傾向は、そこまで高いといった印象は受けないね。むしろ、高いのは衝動性だと思う。つまり、人を殺して快楽を得るとかではなく、何もかもが嫌になって、衝動的な自滅的行動に及んでしまったと。快楽や損得ではなく、原動力は怒り。きっと世界を壊したかったんだと思う。
 確かに、この犯人は異常だろう。だが、俺達が危惧すべきは、異常の度合いがそれほど高くないかもしれないという点だ。この程度の異常な奴なら、他にもいるぞってこと。「進学に挫折し、職場で上手くいかず、もはや未来にも希望が持てない」っていう程度の絶望で凶行に及ぶ奴が、実はかなりの数いる可能性が高く、まさに、社会はそういう状況に置かれる人間を量産しつつあるってことが問題なのだ。
 かつての永山則夫の時代とは違うが、今回の事件も、不況、格差などといった社会的構造が生み出した犯罪であることを否定するのは難しいのではないか。社会をなんとかしなければ、この手の犯罪は更に増える可能性が高いと思われる。
 アレ…、これちょっとヤバくない?ていうか、『風の谷のナウシカ』なんだけどさ。まだ興奮冷めやらないって感じ。こんなにスゴかったっけ、このアニメ…。何から何まで完璧だよ。完成度が高すぎ。
 なんか、妙に新鮮な気分で観たんだけどさ、「この監督、これからブレイクするんじゃねぇか…」みたいな。いや、もちろん駿なんだけどね。分かっていながらも、初めて観た時のような気分でいられたよ。それに、ずっとちゃんと観てなかったんだよね。何度も再放送してるけど、逆に、いつでも観られるだろうって気持ちがあってさ。
 それにしても、改めて思い知らされたのは、宮崎駿って男はトンデモない変態だってこと。狂気ともいえる執念を感じたね。これは俺の仮説ってことになるんだろうけど、この物語は、ナウシカをいかに「萌え」な女性として描くかってことに全てを捧げられていると言って良いのではないか。もっと言えば、こりゃ宮崎駿が、己の描く理想の(妄想の)女性を具現化しようとした、超私的なプロジェクトじゃないかって気さえするね。
 ただ、そういう不純な動機(あくまで私見ですが)で作られたが故に、これだけの迫力のある、鬼気迫る作品に仕上がったのではないかと思う。細かいディテールなんかは勿論だけど、例えば、最終戦争後の世界だとか、蟲、腐海…だなんていう設定も、全てはこの少女ナウシカの「萌え」を引き立たせる為だけに作られた舞台装置だっていう印象を受ける。
 だから、この作品を観て、最も的外れな感想は、平和だとか、エコだとか、自然保護だとか、そういったヒューマニズム的な、ユニセフ的なものだと思うよ。宮崎監督なんて、戦争大好き、殺戮も自然破壊も大好き、そんな悲劇的なシチュエーションで少女がけなげに無垢な気持ちで頑張ってる姿を思い浮かべて絶頂に達する…っていうような人に決まってるんだからさ。とにかく、メカと美少女さえ描ければ、後はどんなに凄惨な場面でも、救いようが無い世界でも、引き立たせ役として使おうっていう腹だから。
 こんな作品を観て、「自然を大切にしましょう」「平和が素晴らしい」とか言ってる輩は、俺から言わせれば作品の冒涜だ。この作品のテーマは、「自然が破壊され、戦争が巻き起こっている状態では、女の子はこんなに『萌え』だ」ってことだと断言してしまって構わない。こんな発言を聞いたら、宮崎監督は、きっと公式の場では大否定するだろうけど、後で俺の留守電に、「君だけだよ、分かってくれたのは」と入っているだろうという自信があるね。

 ちょっと余談だけど、俺が個人的に鳥肌立った箇所としては、ナウシカが、「シリウスに向かって飛べ!」みたいなセリフを言ったとこね。いや、この舞台となる世界が、地球をモデルにしてる感じだなっていうのは誰もが感じるとこだけど、このセリフによって、はっきりとここが地球だっていうことが分かったって思うんだけど…。
 作品中ではみんな日本語を喋ってるけど、それが何か未知なる言葉の吹き替えだとして考えてみて、様々な単語は、全て何らか別の単語だとしても、「シリウス」ってのは、例のあの空に輝くシリウスに他ならないでしょう。「太陽」って言葉とかなら、恒星一般を表す単語として普遍的に使えると思うけど、「シリウス」は具体名だからねぇ。少なくともこの銀河系に実在する星が舞台なんだろうし、それは地球だと言って差し支えないと思う。つまり、地球がモデルの世界じゃなくて、ズバリ地球そのものの未来を描いた作品なんだよね。まぁ、他にもそう論証できるセリフがあったかもしれないけど、俺は「シリウス」という言葉を聞いた瞬間にショックを隠せなかった。まぁ、スゴイ作品だよ。宮崎監督は『ポニョ』なんか撮ってないで、『ナウシカ2』とか、続編を撮るべきでしょう。
 なんか、世の中、「神」だとか「天才」だとか、そういう言葉が安易に使われているようで嫌ですね。特にネット上なんかでは顕著なようだけど、凄く世界が狭いような印象を受けるよ。これも例の「価値の多様化」である程度は説明がつくと思うけど、ようするに、世の中さ、みんな自分の交流する仲間だとか、知識を得る媒介の種類だとか、興味がある対象だとかが、限られた狭い範囲に留まっている傾向があって、自分の「世界」の外の「世界」に対する理解が乏しくなっているのではないかと。で、その狭い「世界」の中で知的充足感を得てしまい、「自分はいっぱしの人間だ」と思い込む…。だけど、実際は、その外にも「世界」はあるわけで、その他の「世界」を見ると、自分達と違う価値観や能力を持っている人間がいることを発見し、驚愕すると共に、一気に「神」だとか「天才」だとかまで飛躍してしまう…と。
 この、「自分はいっぱしの人間だ」と思い込むというのが発端なわけで、そういう人間ほど、ちょっと凄いと思う人を見ると、すぐに「天才」だとか言うのは、結構明らかなんだよね。良い例かは分からないけど、世の中の「一流大学」を出た、または在籍しているなんていう人間と話したりしてみるとさ、こちらが相手よりも優れていると分かると、すぐに「天才ですか?」とか、「神だ!」とか、大袈裟な表現を使って賞賛してくるもんね。
 それは、そもそも、彼等の頭の中では、「自分はかなり優れた人間だ」というのがあるからなわけだ。その根拠たるや、「大学受験の時の偏差値が高かったから」だっていうような、腰砕けになるほど脆弱なものなんだけど、それが彼等の価値観だから仕方がない。だから、そんな「優れている」自分よりも優れているということは、この人は、天才なのだろう…と、こうなってしまうわけだ。
 こんなのは偏差値秀才の愚鈍さを表すエピソードに過ぎないと思うかもしれないけど、世の中全体がそうなりつつあるようだって所に問題があるわけでね。ホント、世の中全体が、自分の狭い範囲で満足して、「自分はいっぱしの人間だ」って思い込んでるように見える。「天才」だ「神」だなんていう人間が、そういるはずないじゃないの…ねぇ。

 良い機会だから言っておくけど、「天才」なんていう言葉は、「優れている者」を指す言葉でもないからねぇ…。それはニュアンスとしては「秀才」でしょう。「天才」っていうのは、「他とは明らかに違った能力を有する者」だと思うよ。これは俺の定義だけど、まぁ常識にも適ってるんじゃないかな。
 世間でも、「秀才は普通の人の何倍もの能力があるが、天才は普通の人が出来ないことをする能力がある」とか「秀才はルールを精密に守ることができるが、天才は新しいルールを創る」とかいうイメージで考えているでしょう。
 そういうのを鑑みていくと、「天才は少数派である」という定理が得られると思う。世の「多数派」とは違う種類の脳を持つ者達。そう考えていくと、利き腕や血液型、人種、特殊な病気などにより、脳が何らかの影響を受けるとしたら、その少数派達の脳は、世間の平均に比べて特殊な脳だということになる。まぁ、そこは科学的な検証が必要だけど、実際、なんらかの影響を与える可能性は高いだろう。すると、良し悪しとは関係なく、少数派の脳を持った者は、「天才型」だということになる。だって、世の多数派とは考え方が違うのだから、多数派から見たら、「信じられないような発想をする人達」に見えるだろう。
 具体例としては、「左利き」とかね。利き腕によって脳の発達する部位が違ったりするならば、右利きと左利きで脳の種類が多少異なる可能性は高い。そうした場合、右利きと左利きのどちらが「天才」だと言われるかというと、それは少数派である「左利き」に決まっている。世の大多数である右利きが「天才」だなどというのは、語義矛盾だと言っても良いだろう。同様にして、AB型、アフリカの少数民族、○○症候群…などというのも、天才型の脳だと認められても不思議はない。「天才の苦悩」とは、「少数派の苦悩」なのだ。
 前回、包括的で汎用性の利く一般理論が必要だということを説いたわけだけど、それは必ずしも「正しい理論」が我々には必要だという意味ではなくて、アカデミシャンたるもの、己の専門分野の一般理論を習得し、それを使った解析を行うべし…ということなんだよね。それを使った解析っていうのは、それを実践的に使えっていうことだけど、現実社会の事象や人間活動に対して適用してみることにより、その理論の有益性が分かるというもの。
 いや、必ずしも現実に当てはめる必要のないような理論もあるし、「現実的に使えないような理論は意味がない」というような考え方はプラグマティズム(実用主義)的であると言われ、日本ではあまりウケが良くないみたい。俺としても、現実に使えないような理論こそ本当は惹かれるんだけど、近頃のアカデミズムの無力さを見ていると、そう生ぬるいことも言っていられないようだ。
 本来の知識人たるもの、それほど現実的な知識を沢山持っていなくても、強力な理論を一つちゃんと踏まえていれば良い…みたいな面があると思う。現実的な知識は、一般人やらジャーナリスト等に任せておいて、それらの意見を総合して、正しい方向を指し示すのが知識人の役割だと言っても良いだろう。必ずしも象牙の塔に篭もることはなく、大衆との繋がりを持つことが必要だという、西部邁なんかも提唱する立場だ。

 現実的な知識ではなく、そこから本質を導き出せるような理論が必要だということだけど、そういった一般理論がなぜ最近流行らないかというと、大きな理由として、マルクス理論の失敗というのが挙げられると思う。まぁ、安易に失敗とか言うと怒られるけど、かつて日本ではマルクス理論が全盛の時代があり、大学関係者なんかも皆、このマルクス理論を踏まえて言動を行っていたわけだ。
 マルクス理論というのはまさに一般理論の名に相応しいもので、そこから人間のありよう、進むべき道、理想の未来まで、全てが見えるという素晴らしいものだった。しかし、少なくとも、20世紀末において、社会主義という理想が極めて脆弱な、砂上の楼閣であったということが判明する。もちろん、まだマルクス理論には輝きが残っているとはいえ、社会主義、共産主義化すれば人類は救済される…といった楽観的な考えは崩壊してしまったといえるわけだ。
 で、その辺から、人々が一般理論に対して弱腰になってしまったように見えるんだよね。机上の空論なんていう言葉があるけど、人々の生活や営み全体を包括的に解析することができるような理論なんてものは無いのではないかと…。折からのポストモダニズムの影響もあって、「全ては相対的である」というようなニヒリズムさえ蔓延してしまい、結果、個別の知識の蒐集や、「常識的な」「道徳的な」科学的根拠の薄弱な見解が横行するようになってしまった。

 だが、今こそ言いたいのだが、一般理論というのは、必ずしも「正しい」必要はないのだ。自然科学の分野が分かりやすいが、理論の歴史とは、論駁されることによって、弁証法的に高まっていくものではないだろうか。反対意見や、それを超克するような理論が湧き起こる為の土台となるだけでも充分なのである。確かに、マルクス理論によって、膨大な数の命が失われた。しかし、恐れる必要はない。今こそ、人類の行く末を左右するような、強力な一般理論を構築すべし。
 今や、アカデミズムの権威はすっかり地に堕ちてしまったのですかな。学歴だとか、そんなレベルの低い話は置いておくとしても、相変わらず学者だ教授だなんていうと世間のウケは良いように見受けられるけど、本当に本音を言えば、そこまで尊敬もされていないだろし、賢いとも思われていないというのが現実だろう。まぁ、人間的に立派である必要なんか無いと思うけど、少なくとも、物事に精通していて、一般人が困っている時に的確な意見を言ってほしいというような期待はある。ていうか、それが出来ないようだったら、存在価値も無いし、国民の税金で研究したりするのもヤメてもらいたいというのが世間の本音ではないか。
 でも、アカデミズムの権威が堕ちてきたのには、まさにそういったアカデミシャン達の「無力さ」が露呈してきたからだというのが大きいと思う。単なる空虚な言葉しか吐けないインテリ…古くからあるアカデミズム批判が、これほど現実的な意味を持ってきたというのは、やはり由々しき事態だと言える。

 こういった傾向の理由としては、アカデミシャン達の「知識の相対化」、「現実問題に対する非力さ」、「一般理論の消失」、といったものが挙げられると思う。まず、「知識の相対化」というのは、ようするに例のポストモダンの話。あらゆる価値が相対化することにより、歴史学とコーエーが、クラシックとJ−POPが、文学とライトノベルが同じ土俵の上に乗り、互いに優劣は無いというようなことが世間共通の了解となってしまったということだ。「学者先生とは言っても、結局は何かのオタクだろ…」といった塩梅。
 そして、「現実問題に対する非力さ」とは、「抽象的な議論は得意でも、現実にどう対処すれば良いかというと、てんで弱い…」と見なされているいうこと。戦前からの流れとして、評論というのは文学者や哲学者の思弁的な活動が中心だったのだが、それが、社会学者や心理学者による実践的な処方箋の提示が隆盛となり、今では、現場に詳しいだけで、素性も知れないような人間達のコメントが中心となっている。単なる形而上学的な抽象論などよりは、現実を知っている人に聞こう、となってしまったわけだ。
 で、「一般理論の消失」ということに繋がるわけだけど、まず、一般理論とは何かというと、グランドセオリーなどとも言うけど、いわゆる科学的に確立された理論のことで、特に汎用性が利くものがこう呼ばれる。つまり、その理論を使えば、社会の色々な事象を説明できるというものだ。例えば、フロイトやラカンなどの心理分析モデルや、マルクスの社会構造モデル、ヘーゲル、ニーチェなどの世界観、ゲーム理論などが有名で、正統で権威ある偉人達の学説というのは、その中心に一般理論を内包するものが多く、それにより、その周縁の諸分野の解析にも応用が利く場合が多いように思われる。
 最初に挙げた「知識の相対化」の話でいくと、ようするにアカデミシャンとオタクの境界を分けるのは、この一般理論の存在だったはずなのだ。オタクというのは、所詮は断片的な知識の蒐集に留まるものだが、アカデミシャンは、単なる表層的な知識ではなく、どっしりとした理論を持っていて、それにより様々なことを分析できるという応用力が期待されるのだ。
 しかし、学問の世界が多岐に渡る発展を成し、一人の人間が横断的に知識を得ることが難しくなった。さらに、かつてのマルクス主義のように、みんなが知っているような一般理論も無くなり、少しでもジャンルが違うと、学者同士で共通の言葉を使って議論することさえ難しくなってしまった。結果、自分の専門については詳しくても、包括的な一般理論を持たない故に、現実的な問題に対処する力が弱くなってしまう。様々な事例を勉強していても、それらを総合して解析しようとすると、自分や世間の常識なんかに依拠してしまい、「そんなことは誰でも言えるよ…」と思われるようなことしか言えない…となる。やはり、一度アカデミズムは解体される必要があるのかな…。
 「ユビキタス」なんていう言葉を聞くようになってから、随分と経ちますねぇ。最初は興味本位な使われ方というか、一つのサイバーパンク的な意匠として、軽い流行語みたいな感じだったのは否めない。それが、ようやく最近になって、ネット倫理の話やセキュリティ関係の話から、具体的な議論になってきたような気がする。
 ユビキタス…。それでも、まだ一般的な用語というほどでもないから説明しておくと、これは、「あらゆるところに存在する…」といったような意味の言葉ね。「遍在」とかが直訳になるのかな。偏在じゃないよ、遍在ね。偏(かたよる)ではなく、遍(あまねく)っていう方の字だ。
 遍在というと、「神は遍在」するっていう言葉を思い出す人が多いんじゃないかな。キリスト教神学によって培われた概念で、神の完全性を表す。つまり、神は一にして全であり、不可能はないので、全ての瞬間、全ての場所に現われることができる。そしてそれは、全ての瞬間、全ての場所に神がいるということにもなるわけだ。
 もちろん、神に本当に不可能はないのかというと、そこはまだ議論の余地のある分野だ。中世スコラ学でも、その辺に関しては慎重で、「いくら神でも、例えば三角形の内角の和が180度でない世界は作れなかった」というような、神とは別に真理をおく考えの方が主流だったように見受けられる。トマス・アクィナスも、この立場だったようだ。
 むしろ、近代哲学の祖デカルトなどは、神は恣意的に真理を創造することができるという考えだったようで、三角形の内角の和が180度ではない世界を創造することもできたという立場だったようだ。神が全てだった中世において、神というものを矛盾なく説明する為に先鋭化された理論が「神の不完全性」を内包し、近代以降、神というものが、人格神というよりも、むしろ論理や真理そのものといった「抽象的存在」として受け取られるようになり、結果、より強力になっていったというのは興味深いところだが、話が脱線するので、このくらいにしておこう。

 で、ユビキタスというのは、「コンピューターが遍在する」ということを表す言葉として使われた。あらゆるものにコンピューターが内蔵され、デジタル化された上、それらがネットワークで繋がれ、俺達の環境を全て包括し、管理していくというシステムのことを指す。それにより、俺達は不自由や不安などとは縁が切れ、全てにおいて完全に快適に管理された社会に住めるっていうことだ。まさに、人類補完計画。
 しかし、それはあくまでプラスの面で、逆に言えば、全て生活が監視・管理され、行動がログとして残るということ。やや薄ら寒いものも感じざるをえない。さらに、コンピューターが各人の個人情報を分析した結果、最適だと思われる情報、物、人、人生を提供してくる方向なっていくだろうことが予想され、本人の意志や人生まで決定されてしまうのではないかということが懸念される。
 そう考えていくと、ユビキタスという語感にも怖ろしいものを感じる。それは、ユビキタスの表す一神教的世界観に対する本能的な恐怖なのかもしれない。唯一神、すなわち、巨大な集権的システム自体が人を管理し、それによって操られるのではないかという感覚が引き起こすものだと言ってもいいだろう。
 その辺の語感的な不安感を解消するためか、文部科学省が推進していたユビキタス推進計画は、「やおよろずプロジェクト」と、日本的な神道的世界観をモチーフにしていた。遍在という言葉を、「森羅万象に神が宿る」という日本古来の世界観を持ってくることにより意味合いを緩和し、集権的権力のニュアンスを消し去ろうという作戦だろうが、ただの言葉のレトリックに過ぎないのも明白だった。全てを管理するアーキテクチャを人間が設計するというのに対する不安は拭えない。いっそ神が設計してくれたら気が楽なのだが…。
 前回、ゲームという文化は非常に爛熟していて、その結果、ゲーム業界という閉じられた世界の中でも多様化が進み、価値観が相対化し、一括りにまとめられないような状態になっている…との旨を改めて確認したわけだけど、こういった状態は、「ポストモダン的状態」であると言われ、主に80年代から90年代にかけて、よく議論された問題だ。
 ポストモダンというのは、近代(モダン)と呼ばれる時代区分と対照することによって意味を成すわけだけど、ようするに、近代社会では、共通の価値観が支配しているが、ポストモダン社会では、あらゆる価値観が相対化されていく…っていう構図なわけ。ポストモダン社会の特色として、ある製品を買おうとしても、必ずしも性能などといった共通の価値観ではなく、人それぞれの好みともいえる、デザインやブランド名などで選ばれる。こういう社会を、「消費社会」とも呼ぶ。

 こういった消費社会論は、すでに語り尽くされた感があるけど、実際のところ、全ての業界がポストモダン化されたわけではなく、まだそこまで多様化されてないような業界も沢山あるように見える。それに、一見爛熟を極めているかのように見える業界も、内実は薄っぺらい理解しかされていないということもあるようだ。例えば、意外に思う人も多いだろうが、「お笑い」なんていうのも、比較的爛熟度の低い業界のように見える。
 では、爛熟した業界と比べてみよう。先ほど、ゲーム業界が爛熟していると言ったが、もっと隆盛なのが、音楽業界だと言って良いと思う。例えば、年頃の子供を持つ親が、安売りのCDコーナーを見て、自分の子供に買ってあげようと思って、適当にその中のCDを買うだろうか。それは断じてありえない。その子供が好むジャンルかどうか、その子供がファンであるアーティストかどうか、それを確認しないと、いくら安売りだろうと買わないに決まってる。これは、当然のように見えるかもしれないが、凄いことなのだ。
 これが同様に、お笑いのビデオが安売りされていたらどうか。「私の子供はお笑いが好きだったな…」と思い、買う可能性が充分にあると思われる。「シュール系のコントか…。うちの息子はベタな関西系漫才が好きだしな」などとまでお笑い芸人を相対化できる親は少ないだろう。

 他の例としては、普通、「音楽好き?」という質問はしないだろう。怪訝な顔をされるに決まっている。「J−POP好き?」とかでも漠然としていて違和感を与えるに違いない。せいぜい、「トランス好き?」とか、「浜崎あゆみ好き?」とかくらいでないと、意味を成す質問とは言いがたい。
 同様に、「テレビ好き?」というのもあまり意味のある質問ではないだろう。「ゲーム好き?」というのでギリギリだが、そこから細かいジャンル分けになるのが前提の質問だ。
 それに対して、「お笑い好き?」などという質問が平気でまかり通っているのが不思議でたまらない。そして、「お笑い好き」だと答える人間は、色々なお笑い芸人が全部好きで、ネタも沢山見ているという方向に話をもっていきたがる。つまり、本当に「お笑い」全体が好きなのだ。これは、他のジャンルではありえないことではないか。
 まぁ、「お笑い好き」なんていう人間に、本当にお笑いが好きで理解している人間がいないのも周知の通り。せいぜい、ただのオタク、知識蒐集をしたいだけ、あるいは、お笑い芸人という人種に憧れを持っているだけ。
 一見、お笑い全盛みたいな時代だけど、お笑いに対する理解が、いかに貧困かということがよく分かる。これは、テレビの作り方が原因なのは明白だが、今日はそこまで立ち入らない。
 お笑いが文化として根付き、それが共通の了解となった上で、さらに爛熟し、相対化が成された時代というのは、例えば、戦後の寄席番組の時期とかね。みんながテレビで落語なんかを見ていた時代だ。そんな時代に、「お笑い好き?」とか「落語好き?」なんて尋ねたら、奇異な目で見られただろう。基本は好きで当たり前、誰のどんな噺が好きかっていうレベルになるはずだ。
 こういう点で言えば、やはり関西の方が進んでいると言わざるをえない。いや、関西人が他の地域の人に比べて面白いなどとは露ほども思わないが、お笑いに慣れ親しむ環境にいるのは確かな気がする。関西地方に住む人間同士は、「お笑い好き?」などという質問はあまりしていないように見受けられるしね。
 まぁ、俺自身は、お笑いなんてそれほど好きでもないけど、例えば、松本人志が何かやるっていうなら、俄然注目する。そういうのが本当だと思うけど…。