いつからか、「自由」というものが、人間にとって一番の価値になってしまった。西洋的な考えからすると、神に背いて禁断の実を食べた時点で、人間は規制や服従を拒み、己の意志で行動することを選んだとも言える。そして、人が人を支配し、国家が人を支配するという歴史を経て、人間達は改めて自由の素晴らしさを痛感し、自由を金科玉条のものとし、そこから近代主義の全ての考えが生まれた。人権も平和も各種権利も、全ては、自由の為。「人間が人間らしく生きることとは、自由に生きることだ」というような考えが根付くようになった。
だが、特にこういった考えが日本に広まったのは、戦後のことだと思う。通例的なことを言えば、日本で本当に自由主義、近代主義が勃興したのは、敗戦によってアメリカニズムが市井のレベルでも根付き、マスコミなどを介して広がったからだということになる。
ここで考えてみたいのは、「自由」とは、そこまで素晴らしいものなのかということだ。「民主主義の手続きにより、民主主義以外の政治体制を選択できる」という、民主主義のジレンマと同様、自由という概念にも、「束縛されることの自由」や、「支配されることの自由」を選択できるというジレンマがある。あえて「ジレンマ」という言葉を使ったのは、それがあまり良くないこととして認識されているからなのだが、冷静に考えてみると、そういいった「不自由を選択する自由」が保証されることこそ、自由を考える上で最も重要なことではないかと思われる。
自由というのは非常に強い概念なので、それを至高のものとすると、際限無く人々に負担を強いることにもなりかねない。つまり、自由とは、言い換えれば、「選択肢の数が多い」ということで、その大量の選択肢の中から、一つを選ばなくてはいけないというプレッシャーを与え、さらには、その選択肢を選んだことを自分の中で納得しなければいけないという精神的負担をも強いることになるからだ。
言い換えれば、「過度の自由が不自由を生む」とも言い換えられる。具体的に考えてみよう。親の家業を継ぎ、お見合い相手と結婚し、一生地元を離れず暮らす…こういった生活が当たり前だった頃と、どんな職業を選んでも良く、どんな相手と結婚しても良く、どこへ行っても良いと言われている現在、どちらが精神的に負担が少ないかというと、ちょっと考えさせられるものがあるのではないだろうか。
何を選んでも良いと言われているが故に、無理に選ばなくてはいけない…これは少々逆説的だろう。今では、親の家業を継ぐなどと言うと、憐れむような顔で見られる有様だ。「自分の職業も自分で選べないなんて、可哀想に…」といった感じでね。
もちろん、それでも自由が良いと考えている人は多いだろうし、確かに自由は保証されていなければならないとは思う。しかし、自由によって圧迫されている人が多いのも事実だ。もう少し補助線を引いてみよう。自由とは、あくまでも挑戦する自由のことで、実際に手に入れたり、達成することを保証するものではない…こういう冷たい現実があるから、自由についての問題が生まれるわけだ。
自由を標榜する社会では、そこに生きる人全ての自由が保証されている。すなわち、みんなが自分の欲望を追う自由があるわけで、もちろん全員がそれを叶えることは出来ない。競争に勝った者、能力のある者のみだ。みんなが自由に夢を持ち、競争することが出来るが、手に入れられるのは一握りの人物だけ。はたして、それが本当に幸せなことなのかといえば、もっと議論があって良いと思う。
この社会の設計者達から、「君達は自由なんだよ」と言われ、大喜びで踊りまわるも、大多数の人間は競争に負け、挫折を味わう。それが現代の社会ではないか。親や社会など気にせず、本当に好きな人と結婚して良い、などと言われて喜んだのに、結局誰とも結婚できないなどという人間の、なんと多いことか。それならば、親の強引なお見合いで結婚する社会の方が幸せかもしれない。
自由などという根拠の曖昧なエサに釣られている場合ではない。声をあげるべきだ、「私に幸福な不自由をくれ」と。
だが、特にこういった考えが日本に広まったのは、戦後のことだと思う。通例的なことを言えば、日本で本当に自由主義、近代主義が勃興したのは、敗戦によってアメリカニズムが市井のレベルでも根付き、マスコミなどを介して広がったからだということになる。
ここで考えてみたいのは、「自由」とは、そこまで素晴らしいものなのかということだ。「民主主義の手続きにより、民主主義以外の政治体制を選択できる」という、民主主義のジレンマと同様、自由という概念にも、「束縛されることの自由」や、「支配されることの自由」を選択できるというジレンマがある。あえて「ジレンマ」という言葉を使ったのは、それがあまり良くないこととして認識されているからなのだが、冷静に考えてみると、そういいった「不自由を選択する自由」が保証されることこそ、自由を考える上で最も重要なことではないかと思われる。
自由というのは非常に強い概念なので、それを至高のものとすると、際限無く人々に負担を強いることにもなりかねない。つまり、自由とは、言い換えれば、「選択肢の数が多い」ということで、その大量の選択肢の中から、一つを選ばなくてはいけないというプレッシャーを与え、さらには、その選択肢を選んだことを自分の中で納得しなければいけないという精神的負担をも強いることになるからだ。
言い換えれば、「過度の自由が不自由を生む」とも言い換えられる。具体的に考えてみよう。親の家業を継ぎ、お見合い相手と結婚し、一生地元を離れず暮らす…こういった生活が当たり前だった頃と、どんな職業を選んでも良く、どんな相手と結婚しても良く、どこへ行っても良いと言われている現在、どちらが精神的に負担が少ないかというと、ちょっと考えさせられるものがあるのではないだろうか。
何を選んでも良いと言われているが故に、無理に選ばなくてはいけない…これは少々逆説的だろう。今では、親の家業を継ぐなどと言うと、憐れむような顔で見られる有様だ。「自分の職業も自分で選べないなんて、可哀想に…」といった感じでね。
もちろん、それでも自由が良いと考えている人は多いだろうし、確かに自由は保証されていなければならないとは思う。しかし、自由によって圧迫されている人が多いのも事実だ。もう少し補助線を引いてみよう。自由とは、あくまでも挑戦する自由のことで、実際に手に入れたり、達成することを保証するものではない…こういう冷たい現実があるから、自由についての問題が生まれるわけだ。
自由を標榜する社会では、そこに生きる人全ての自由が保証されている。すなわち、みんなが自分の欲望を追う自由があるわけで、もちろん全員がそれを叶えることは出来ない。競争に勝った者、能力のある者のみだ。みんなが自由に夢を持ち、競争することが出来るが、手に入れられるのは一握りの人物だけ。はたして、それが本当に幸せなことなのかといえば、もっと議論があって良いと思う。
この社会の設計者達から、「君達は自由なんだよ」と言われ、大喜びで踊りまわるも、大多数の人間は競争に負け、挫折を味わう。それが現代の社会ではないか。親や社会など気にせず、本当に好きな人と結婚して良い、などと言われて喜んだのに、結局誰とも結婚できないなどという人間の、なんと多いことか。それならば、親の強引なお見合いで結婚する社会の方が幸せかもしれない。
自由などという根拠の曖昧なエサに釣られている場合ではない。声をあげるべきだ、「私に幸福な不自由をくれ」と。


