猥褻かどうかっていう問題は、なかなか難しいよ。でも、作品としてどこまで表現して良いのかというのは、クリエイター達にとってはかなり重要な問題でしょう。
性的な感情を促すことを目的として作られた作品ってのは、基本的には取り締まりの対象になりやすいだろうけど、最初から芸術のつもりで作られた作品は、難しいとこだよね。絵画や彫刻なんかの場合は、とりあえず、性的な部位や性的な行為は表現してはいけないっていう暗黙のルールがあるようで、それはそれなりの正当性をもっていると思う。ミケランジェロのダビデ像みたいにさらし者になっているのも結構あるけど、古典的なものは許されるみたいだね。仕方がないってことかな。後は、描き方にもよるけど…あまりリアルな話はアレだね。
文章なんかの場合はもっと難しくて、ある意味で治外法権みたいなとこがあるじゃん。放送禁止用語も、本だったらOKみたいな不文律があって、それはちょっと変な気もするけど、まぁ人の目に触れる絶対数が少ないっていうのもあるんでしょう。いかがわしい内容の本なんか山ほどあるもん。
ただ、それにも関わらず、猥褻だとして取り締まられる本もあるんだよね。普通のエロ本みたいなのは結構治外法権だけど、むしろ、世界的名作だとか、有名人の書いたある本、凄く売れた本…なんかのように、影響力のある本は検閲が厳しくなる傾向はあるみたい。テレビなんかだと、視聴率が低い番組なら何言っても良い…みたいなことはないけど(全くないわけでもないが)、本は、その辺の発行部数とかによって扱いがまるで違ってくるってことね。
本で猥褻といえば、澁澤龍彦訳のサド著『悪徳の栄え』の通称:サド裁判なんかが有名だね。後は、チャタレー裁判とかかな、こっちはあまり知らないけど。率直な感想を言わせてもらえば、やっぱりサドってのはスゴイと…。フランス革命期辺りの人間だから、もう二百年とか経っても、未だに世の良識と戦ってるわけだからさ。まさに、ここで取り締まられることは、サドにとっては愉悦の極みではないかと思う。って、話が脱線したな。
ただ、本が取り締まられることに違和感があるのは、テレビに対して影響力が少ないのもあるけど、やっぱり、本ってのは芸術活動だという意識が強いのと、後は、本というのは進んで手に取るものだというのがある。
進んで手に取るものっていうのは分かりにくいかな。猥褻物に対しては、見ない権利を行使できるかどうかというのが重要だということで、見たくなければ最初から見ないことを選択できるなら、それは猥褻物ではないという考えがあるわけ。街中に猥褻なポスターが貼ってあったり、お昼のテレビで突然猥褻なシーンが出たりするのは、ちょっと回避しづらいから、猥褻にあたる可能性は高いけど、本やサイトだったら、見ない権利を行使すれば良いだけの話だから、猥褻さを取り締まりづらい…みたいな。
もう一つの、芸術活動だという方は分かりやすいね。で筒井康隆の断筆宣言なんてのもあったけど、やっぱり作家は作品に対するプライドが高いから。表現の自由ということを金科玉条のように掲げることがアイデンティティなような面もあるみたい。確かに、猥褻などということを問い始めたら、文学は衰退が懸念される。しかし歴史上の大作家達は、検閲や世間の目などと戦いながら、作品を作り続けてきたのではないか。今の作家達も、表現の自由だのと甘ったれたことを言わずに、取り締まられたり、牢に入れられたり、死刑になったりするくらいの覚悟で表現していくことが必要ではないか。そのくらいの気持ちが無いなら、文章なんて書くべきじゃない気もするけどね。
性的な感情を促すことを目的として作られた作品ってのは、基本的には取り締まりの対象になりやすいだろうけど、最初から芸術のつもりで作られた作品は、難しいとこだよね。絵画や彫刻なんかの場合は、とりあえず、性的な部位や性的な行為は表現してはいけないっていう暗黙のルールがあるようで、それはそれなりの正当性をもっていると思う。ミケランジェロのダビデ像みたいにさらし者になっているのも結構あるけど、古典的なものは許されるみたいだね。仕方がないってことかな。後は、描き方にもよるけど…あまりリアルな話はアレだね。
文章なんかの場合はもっと難しくて、ある意味で治外法権みたいなとこがあるじゃん。放送禁止用語も、本だったらOKみたいな不文律があって、それはちょっと変な気もするけど、まぁ人の目に触れる絶対数が少ないっていうのもあるんでしょう。いかがわしい内容の本なんか山ほどあるもん。
ただ、それにも関わらず、猥褻だとして取り締まられる本もあるんだよね。普通のエロ本みたいなのは結構治外法権だけど、むしろ、世界的名作だとか、有名人の書いたある本、凄く売れた本…なんかのように、影響力のある本は検閲が厳しくなる傾向はあるみたい。テレビなんかだと、視聴率が低い番組なら何言っても良い…みたいなことはないけど(全くないわけでもないが)、本は、その辺の発行部数とかによって扱いがまるで違ってくるってことね。
本で猥褻といえば、澁澤龍彦訳のサド著『悪徳の栄え』の通称:サド裁判なんかが有名だね。後は、チャタレー裁判とかかな、こっちはあまり知らないけど。率直な感想を言わせてもらえば、やっぱりサドってのはスゴイと…。フランス革命期辺りの人間だから、もう二百年とか経っても、未だに世の良識と戦ってるわけだからさ。まさに、ここで取り締まられることは、サドにとっては愉悦の極みではないかと思う。って、話が脱線したな。
ただ、本が取り締まられることに違和感があるのは、テレビに対して影響力が少ないのもあるけど、やっぱり、本ってのは芸術活動だという意識が強いのと、後は、本というのは進んで手に取るものだというのがある。
進んで手に取るものっていうのは分かりにくいかな。猥褻物に対しては、見ない権利を行使できるかどうかというのが重要だということで、見たくなければ最初から見ないことを選択できるなら、それは猥褻物ではないという考えがあるわけ。街中に猥褻なポスターが貼ってあったり、お昼のテレビで突然猥褻なシーンが出たりするのは、ちょっと回避しづらいから、猥褻にあたる可能性は高いけど、本やサイトだったら、見ない権利を行使すれば良いだけの話だから、猥褻さを取り締まりづらい…みたいな。
もう一つの、芸術活動だという方は分かりやすいね。で筒井康隆の断筆宣言なんてのもあったけど、やっぱり作家は作品に対するプライドが高いから。表現の自由ということを金科玉条のように掲げることがアイデンティティなような面もあるみたい。確かに、猥褻などということを問い始めたら、文学は衰退が懸念される。しかし歴史上の大作家達は、検閲や世間の目などと戦いながら、作品を作り続けてきたのではないか。今の作家達も、表現の自由だのと甘ったれたことを言わずに、取り締まられたり、牢に入れられたり、死刑になったりするくらいの覚悟で表現していくことが必要ではないか。そのくらいの気持ちが無いなら、文章なんて書くべきじゃない気もするけどね。


