批評学園

日常・非日常を批評するブログ。

 『耳をすませば』、思わず観てしまいました…。なんなんだろうね、この感じ。いや、基本的には、受け付けないんだよ。ただ、気になる存在というか、ついつい嗅いでしまう悪臭というか…こりゃ怒られるな。でも、そういう妙な距離感を感じる作品だ。
 やっぱり、あの青臭い感じはダメなんだけどさ。下手したら、年々嫌悪感が増大化してるような気もするけど、あまりそういうことを言うと、屈折している人間のように思われるからヤメておくとして、今回感じたのは、街の描き方についてだ。ついにキャラクターは好きになれなかったけど、世界観、中でも街の描き方は好感持てるし、卓越しているんじゃないかとも思うね。
 初めて観た時に、どこかで見たことがあるよう街だ…と誰もが思ってしまうような普遍性。下手したら、自分が住んでいる街が舞台なんじゃないかと思うくらいだ。そんな街の描き方が長いこと気にかかっていたんだけど、今回、改めて思ったことがある。キーワードは京王線だ。この作品では京王線沿線が舞台となっているというのは、実際に雫が京王線に乗って移動するシーンや、所々に出てくる京王デパートなんかから明らかだけど、京王線沿線の郊外都市を描いたことによって、この物語に普遍性が出たというのは、挙げておくべきことだろう。
 実際、京王線沿線の雰囲気というのが、またよく描けている。駅の感じや、駅前の雰囲気なんかは、まさにあの通りといった感じだ。ただ、それは小田急沿線や、かろうじて東横線沿線なんかにも通じるもので、東京郊外の路線全般に共通する世界観なんだ。つまり、あの映画を観て人々が連想するのは、京王線という特定の沿線の街並みではなく、東京の郊外全般、そして、それは地方都市の郊外やベッドタウン、日本中に点在するニュータウン、新興住宅街全般の風景なのではないか…という話でさ。

 これは90年代に流行った郊外論の焼き直しみたいだけど、ようするに、郊外都市というのは、地下の安さを求めて通勤圏が拡大していき、それに伴い人工的に作られた街だと言えるわけで、その没個性さにおいて共通し、適度な快適さと利便性、ほど良い自然と無機質な建物が共存する、匿名性の高い、「交換可能」な街並みだと分析される。
 それが問題だ…という文脈で使われることが多い議論なわけだけど、この作品では、その平坦な普遍性みたいなものが良い方向にいっている気がする。先に述べたように、この作品が持つ、「自分が住む街ではないか」というイメージは、日本中が均一化していくという由々しき事態を逆手に取って、日本国民共通の心象風景を描いたと言えるのではないか。
 そしてもう一つは、郊外の生き方みたいなところね。これは、作品のテーマでもあるけど、郊外という「平坦な日常≒現代日本」を、いかに楽しく生きるかというスタイルが描かれていて、そこが共感を呼ぶのではないか。この作品には、特別な場所など出てこない。どこも、ひょっとしたら自分の街にもあるかもしれないという、平坦な景色ばかり。でも、それが「等身大の中学生の恋愛」を描くには、良かったのではないかと思う。
 ただ、もちろん俺的には、この作品自体を認めたわけではない。この辺は好みの問題だけど、ジブリ作品には、異世界だ、メカだ、超古代文明だ、謎の美少女だといった、まさに非日常そのものを求めてしまうからね。宮崎監督には、またメチャクチャな冒険活劇を作ってほしい。最近のヌルイ作品ばかりを観てきた世代には分からないかもしれないけど、あの監督は本物の変態なんだよ。日本中に、その変態っぷりを披露してほしいものだ。まさか、自分のことを「清く正しい正統派アニメの巨匠」だなんて勘違いしてるんじゃないだろうな…。
コメント
コメントする
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
この記事のトラックバックURL
http://hihyougakuen.blog113.fc2.com/tb.php/168-14b4a876
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
トラックバック