現在、宗教にハマるのは、どういう人達なのだろう。そこには、大きく分けて4つのタイプがあるのではないか。
1.現世利益型 … 現実の生活に幸せが訪れる為に入信
2.現実逃避型 … 人生に意味を見出せず、全てから逃げる為に入信
3.超能力願望型 … 超能力、超自然的能力を得る為に入信
4.来世期待型 … 転生、ハルマゲドン、天国などに期待して入信
ちょっと荒い分け方かな。でも、複合型も含めて、大体こんな感じで説明つくでしょう。そう考えてみると、やっぱり現実世界に物足りなさを感じて、ファンタジーを求めて宗教の世界に行く人が多いんだなって思うね。
1なんかは現実に足が付いてるように見えるけど、結局は何らか神仏の力を使って幸福を得ようとしている時点で危ういよね。まぁ、それでもこのレベルの人は深くはハマらないんじゃないかな。占いやらが好きな人の延長だと思う。
2は、他との複合型になりやすいと思うけど、本当に、そこから何か期待するのではなくて、単に現実社会から逃避する為だけに宗教にハマる人も結構多いようだ。ある種の癒しが欲しいというか、利害やしがらみの無い人間関係や、現実の価値観全部から離れて暮らしたいという人が、宗教、特に出家修行者的な生活に憧れて入信するというパターンは多く見られる。
で、3だけど、この辺から少々危なっかしくなるのかな。1や2に比べても、積極的にファンタジーの世界に没入したいという気持ちが窺えるし、かといって、単に現実から逃げたいと思うのではなく、非現実の力を得て、現実世界でも成功しようという意志が見える。恐らく、自分の上司や周りの連中を見返してやりたいというような、負の感情も持っていることだろう。
しかし、入信したこと自体により超能力を得るというのは、少なくとも、真っ当な宗教では有りえないことだ。まず、神道は、人間が人智を超えた力を持つことを認めるものではない。仏教では、修行により力を得ることは出来るが、力が欲しいなどという煩悩を持ったものが悟ることなど出来ないとされる。儒教では、超自然的なことは無いわけではないが、少なくとも、儒教徒になったからといって力が得られるものではない。キリスト教では、奇跡という概念があるが、奇跡を起こす力を持つのは神であって、キリスト教徒になることと、預言者となって奇跡を起こせるかということは、ほぼ因果関係が無い。
そう、入信することにより、超能力を得られるなどという宗教は無いのだ。あるとすれば、一部の悪魔崇拝くらい。悪魔と契約することにより、力を得られるといった類だ。
で、4だが、これは、特定の力とかではなく、その宗教の世界観全体を欲するようなものだね。大抵は、死の恐怖から逃れる為、永遠の命に繋がるような設定に繋がり、自らが人間を超えたものになるというのが多いようだ。
俺が問題にしたいのは、こういった構図が新興宗教によって上手く使われているってことでね。1や2によって人々を惹きつけ、3や4のようなことを言って、陶酔させたり、不安を煽ったりして入信させるということ。
ツライ現実を生きるには、非現実的な物語に依存しなければいけないというのも分からないではないが、そこから一足飛びに神に行ってしまう短絡は、やはり危ういものを感じずにはいられない。物神、つまり、特定の物に対する依存が促されるのが消費社会だが、宗教に惹かれる者が多いのは、物質世界(物神)から、また精神世界(神)へと価値が移行しているからかもしれない。もはや、物質そのものに精神を見出すという離れ業しか、こんな状況を打開する術はないだろう。そして、その可能性を提示するものこそが「萌え」なのである。
もはや神は死んだ。皆のもの、初音ミクを奉るべし。結局、こんなオチか…。
1.現世利益型 … 現実の生活に幸せが訪れる為に入信
2.現実逃避型 … 人生に意味を見出せず、全てから逃げる為に入信
3.超能力願望型 … 超能力、超自然的能力を得る為に入信
4.来世期待型 … 転生、ハルマゲドン、天国などに期待して入信
ちょっと荒い分け方かな。でも、複合型も含めて、大体こんな感じで説明つくでしょう。そう考えてみると、やっぱり現実世界に物足りなさを感じて、ファンタジーを求めて宗教の世界に行く人が多いんだなって思うね。
1なんかは現実に足が付いてるように見えるけど、結局は何らか神仏の力を使って幸福を得ようとしている時点で危ういよね。まぁ、それでもこのレベルの人は深くはハマらないんじゃないかな。占いやらが好きな人の延長だと思う。
2は、他との複合型になりやすいと思うけど、本当に、そこから何か期待するのではなくて、単に現実社会から逃避する為だけに宗教にハマる人も結構多いようだ。ある種の癒しが欲しいというか、利害やしがらみの無い人間関係や、現実の価値観全部から離れて暮らしたいという人が、宗教、特に出家修行者的な生活に憧れて入信するというパターンは多く見られる。
で、3だけど、この辺から少々危なっかしくなるのかな。1や2に比べても、積極的にファンタジーの世界に没入したいという気持ちが窺えるし、かといって、単に現実から逃げたいと思うのではなく、非現実の力を得て、現実世界でも成功しようという意志が見える。恐らく、自分の上司や周りの連中を見返してやりたいというような、負の感情も持っていることだろう。
しかし、入信したこと自体により超能力を得るというのは、少なくとも、真っ当な宗教では有りえないことだ。まず、神道は、人間が人智を超えた力を持つことを認めるものではない。仏教では、修行により力を得ることは出来るが、力が欲しいなどという煩悩を持ったものが悟ることなど出来ないとされる。儒教では、超自然的なことは無いわけではないが、少なくとも、儒教徒になったからといって力が得られるものではない。キリスト教では、奇跡という概念があるが、奇跡を起こす力を持つのは神であって、キリスト教徒になることと、預言者となって奇跡を起こせるかということは、ほぼ因果関係が無い。
そう、入信することにより、超能力を得られるなどという宗教は無いのだ。あるとすれば、一部の悪魔崇拝くらい。悪魔と契約することにより、力を得られるといった類だ。
で、4だが、これは、特定の力とかではなく、その宗教の世界観全体を欲するようなものだね。大抵は、死の恐怖から逃れる為、永遠の命に繋がるような設定に繋がり、自らが人間を超えたものになるというのが多いようだ。
俺が問題にしたいのは、こういった構図が新興宗教によって上手く使われているってことでね。1や2によって人々を惹きつけ、3や4のようなことを言って、陶酔させたり、不安を煽ったりして入信させるということ。
ツライ現実を生きるには、非現実的な物語に依存しなければいけないというのも分からないではないが、そこから一足飛びに神に行ってしまう短絡は、やはり危ういものを感じずにはいられない。物神、つまり、特定の物に対する依存が促されるのが消費社会だが、宗教に惹かれる者が多いのは、物質世界(物神)から、また精神世界(神)へと価値が移行しているからかもしれない。もはや、物質そのものに精神を見出すという離れ業しか、こんな状況を打開する術はないだろう。そして、その可能性を提示するものこそが「萌え」なのである。
もはや神は死んだ。皆のもの、初音ミクを奉るべし。結局、こんなオチか…。


