人間の「心」をどう考えるべきか。ただ、どんな思考回路を辿るにしろ、心というものを生み出すものというか、心が宿っているものは、「脳である」というのが衆目の一致するところでしょう。もっとも、欧米では、心=心臓と考えると聞くけど、心臓で何かを考えたり感じたりするとまでは思っていないはずだ。
では、具体的に「心とは何か」と考えたいが、そこで補助線となるのが、人間以外の動物だと思う。動物にも心はあるのか。もし脳に心が宿るとしたら、人間同様に脳を持つ動物に心が無いのはおかしいということになる。
そもそも、俺達が「心を持っている」と認める状態とは、どういうものか。今の動物の例で考えよう。例えば、犬が「この肉、美味いナァ…」とでも思ったら、それは、心があると言えると言って良いと思う。それなら誰もが認めるでしょう。ということは、心とは、「何かを思うこと」なのか。では、「何かを思う」とは何か。
これでは、振り出しに戻ったようにも見える。しかし、先ほどの犬の例にヒントが隠されているのではないか。すなわち、「この肉、美味いナァ…」というように、言葉によって表されるとき、そこには思考が認められるのではないか。そして、思考があることにより、そこには心があると認められる…こういう論理展開ではどうだろう。つまり、「言葉があることによって、心があるということになる」というわけだ。
哲学の分野でも、言葉と思考の問題は重要課題であって、言葉があるから思考があるというのは、別に異端の説でも何でもない。言語哲学、分析哲学の類などは、言語の存在から人間の認識を見極めていこうという試みのように見える。
では、言葉が無かったら、人間は思考することができないのか。確かに、言葉が無い状態では、せいぜい何かを感じるくらいで、考えるなどという高度なことはできないような気もする。美味しい物を食べても、それを「美味しい」とは思わないのは勿論、特定の脳内物質が分泌されて恍惚とした感覚めいたものを感じる程度ではないか。
しかし、言葉が無いとしても、木の上にある実を見つけ、近くにあった棒を使って取ろうと試みる…という程度のことは可能だろう。では、それは思考ではないのか…と問われると難しい。言葉を持たなくても、何らの試行錯誤をすることはでき、それを思考だと言っても問題は無い気もする。
それに、言葉の存在により、人間は思考することができるようになったと考えるならば、では、人間は思考無しに言葉を生み出したのかという問題が生じる。言葉という複雑な体系を生み出す為には、思考という作業が必要不可欠だろう。
そう考えていくと、言葉により、思考は論理的になり、飛躍的に能率が上がるのは間違いないが、必ずしも言葉が無くても思考は出来るようにも思われる。そこで、心≒思考能力として、それが有る無しではなく、段階的に、どの程度あるかと考えるのが無難かもしれない。そうなると、「思考ではないが、人間を動かすもの」としての本能というものの存在がキーになる。本能というのは、そうするように先天的にプログラムされたものであり、自分の意志が感じられない。本能重視で生きる生き物ほど、思考力は弱く、その分、心も乏しいということになる。動物の思考力を比べるのは難しいが、下等生物などは、ほぼ本能のみで生きているのに対し、哺乳動物などは、危機に対した際など、臨機応変な対応を見せることがある。これは、思考力が高いと見て良いだろう。
しかし、ここまで順を追って考えてきて、はたと気付かずにはいられない。言葉や思考というものを心の本質に置こうということの無意味さだ。言葉が無く、思考力が無いものは、心も無い…今の流れからすると、そういう結論が導かれるだろうが、それを良識派の方々にでも聞かせたら、きっとこう言うだろう。「では、赤ん坊には心が無いのか、重度の精神障害者には心が無いのか」と。
そう、心とは、実は脳の能力でも、思考能力でも言語能力でもなかったのだ。生きとし生けるもの全てが持つ、まさに「命」そのもののことなのだ。というか、そういうものを指す、漠然とした言葉に過ぎない。哲学が考えるテーマですらない…。そういう意味では、結局、「心臓」とほぼ同義なのかもしれないね。
では、具体的に「心とは何か」と考えたいが、そこで補助線となるのが、人間以外の動物だと思う。動物にも心はあるのか。もし脳に心が宿るとしたら、人間同様に脳を持つ動物に心が無いのはおかしいということになる。
そもそも、俺達が「心を持っている」と認める状態とは、どういうものか。今の動物の例で考えよう。例えば、犬が「この肉、美味いナァ…」とでも思ったら、それは、心があると言えると言って良いと思う。それなら誰もが認めるでしょう。ということは、心とは、「何かを思うこと」なのか。では、「何かを思う」とは何か。
これでは、振り出しに戻ったようにも見える。しかし、先ほどの犬の例にヒントが隠されているのではないか。すなわち、「この肉、美味いナァ…」というように、言葉によって表されるとき、そこには思考が認められるのではないか。そして、思考があることにより、そこには心があると認められる…こういう論理展開ではどうだろう。つまり、「言葉があることによって、心があるということになる」というわけだ。
哲学の分野でも、言葉と思考の問題は重要課題であって、言葉があるから思考があるというのは、別に異端の説でも何でもない。言語哲学、分析哲学の類などは、言語の存在から人間の認識を見極めていこうという試みのように見える。
では、言葉が無かったら、人間は思考することができないのか。確かに、言葉が無い状態では、せいぜい何かを感じるくらいで、考えるなどという高度なことはできないような気もする。美味しい物を食べても、それを「美味しい」とは思わないのは勿論、特定の脳内物質が分泌されて恍惚とした感覚めいたものを感じる程度ではないか。
しかし、言葉が無いとしても、木の上にある実を見つけ、近くにあった棒を使って取ろうと試みる…という程度のことは可能だろう。では、それは思考ではないのか…と問われると難しい。言葉を持たなくても、何らの試行錯誤をすることはでき、それを思考だと言っても問題は無い気もする。
それに、言葉の存在により、人間は思考することができるようになったと考えるならば、では、人間は思考無しに言葉を生み出したのかという問題が生じる。言葉という複雑な体系を生み出す為には、思考という作業が必要不可欠だろう。
そう考えていくと、言葉により、思考は論理的になり、飛躍的に能率が上がるのは間違いないが、必ずしも言葉が無くても思考は出来るようにも思われる。そこで、心≒思考能力として、それが有る無しではなく、段階的に、どの程度あるかと考えるのが無難かもしれない。そうなると、「思考ではないが、人間を動かすもの」としての本能というものの存在がキーになる。本能というのは、そうするように先天的にプログラムされたものであり、自分の意志が感じられない。本能重視で生きる生き物ほど、思考力は弱く、その分、心も乏しいということになる。動物の思考力を比べるのは難しいが、下等生物などは、ほぼ本能のみで生きているのに対し、哺乳動物などは、危機に対した際など、臨機応変な対応を見せることがある。これは、思考力が高いと見て良いだろう。
しかし、ここまで順を追って考えてきて、はたと気付かずにはいられない。言葉や思考というものを心の本質に置こうということの無意味さだ。言葉が無く、思考力が無いものは、心も無い…今の流れからすると、そういう結論が導かれるだろうが、それを良識派の方々にでも聞かせたら、きっとこう言うだろう。「では、赤ん坊には心が無いのか、重度の精神障害者には心が無いのか」と。
そう、心とは、実は脳の能力でも、思考能力でも言語能力でもなかったのだ。生きとし生けるもの全てが持つ、まさに「命」そのもののことなのだ。というか、そういうものを指す、漠然とした言葉に過ぎない。哲学が考えるテーマですらない…。そういう意味では、結局、「心臓」とほぼ同義なのかもしれないね。


